EP 5
バグの発生(飴玉の復活)と、大家の意地
「……私が、辞めれば」
キャルルの震える手が、朱肉をつけた『代表取締役印』を、赤山が用意した退任同意書(データ端末)の画面へと近づけていく。
防音ガラスの向こうでは、口座を凍結されパニックに陥った商人たちが、窓を叩き割らんばかりの勢いで「金を出せ!」と叫び続けている。
彼女の持つ「無償の愛」は、他人の痛みを見過ごせない。だからこそ、自分の首を差し出して皆が助かるなら、喜んでこの理不尽な奴隷契約にサインしてしまう。
それが、赤山天人という男の編み出した、最も悪魔的な方程式だった。
スピーカーの向こうで、赤山が静かに、完璧なUIの微笑みで囁く。
『ええ。それが最も正しく、最も美しい選択です。さあ……』
印鑑が、画面に触れる、その数ミリ手前。
——パァァァンッ!!!
社長室に、乾いた破裂音が響き渡った。
「……えっ?」
キャルルが目を丸くする。
彼女の手から『代表取締役印』が弾き飛ばされ、床を転がっていた。
印鑑を叩き落としたのは、力武義正だった。
彼は、血走った目で、肩で大きく息をしながらキャルルを見下ろしていた。
「……力武、さん……? なんで……私が辞めないと、みんなが……」
「黙れ。バカ大家」
力武は、ヨレヨレになったスーツのポケットに手を突っ込み、新しい『ハードキャンディ』を取り出した。
そして、それを乱暴に口に放り込み、奥歯で挟んだ。
——ガリィィィィッ!!!
これまでで一番大きく、鋭く、硬質な音が、社長室に響いた。
キャンディを噛み砕く音。それは、彼の中の「商社マンとしての常識」と「冷徹な算盤」を完全に粉砕する音だった。
「……てめえ、赤山って言ったな」
力武は、通信スピーカーに向かって、腹の底からドス黒い、凄まじい熱量を帯びた声で唸った。
「てめえの組んだ盤面は、確かに100点満点だ。……誰の血も流さず、相手の『優しさ』や『自己犠牲』すらも変数として組み込んで、自分から首を括るように誘導する。……見事だよ。商社時代の俺なら、迷わずサインして『賢い敗北』を選んでた」
力武は、床に落ちた印鑑を拾い上げ、自分のポケットにねじ込んだ。
「でもな。俺はもう、ただの算盤弾き(サラリーマン)じゃねえんだよ」
力武は、キャルルの小さな肩をガシッと掴み、モニターに向けさせた。
「俺は、こいつが自分の血を吐いてでも村人を治し、利益も出ねえのに飯を振る舞う姿を見ちまった。……そんな『非合理で美しい無駄』を、てめえみたいな血の通ってねえシステム(数字)に、ただのデータとして消費されてたまるかよ!!」
力武の咆哮に、信長がニヤリと笑ってナイフの柄を叩き、モニターの向こうの輝夜が静かに、しかし力強く頷いた。
「キャルル!! よく聞け!!」
力武は、キャルルの真っ赤な瞳を真っ直ぐに見つめた。
「お前は大家だろ!! 店子がヤクザの嫌がらせでパニックになってる時に、大家がアパートの権利書をヤクザに渡して逃げるのか!? そんな奴の作るカレーが、美味えわけねえだろ!!」
「……っ!!」
力武の言葉が、キャルルの心の奥底の、最も柔らかくて強い部分に突き刺さった。
(そうだ……。私が辞めたら、この村はただの『日本の植民地』になる。みんなで笑ってご飯を食べる場所じゃなくなっちゃう……!)
キャルルは、両手で自分の頬をパンッ!と強く叩いた。
ウサギの耳が、ピンと天を指して立ち上がる。その瞳から、絶望の涙は消え去っていた。
「……ごめん。私、間違ってた」
キャルルは、スピーカーに向かって、キッと牙を剥くように睨みつけた。
「聞いてたわね、東京の暗殺者さん! 私は社長を辞めない!! どんなに嫌がらせされても、この村の『大家』は絶対に譲らないわ!!」
スピーカーの向こう側。東京の執務室。
赤山天人は、ミネラルウォーターのグラスを手に持ったまま、ピタリと動きを止めていた。
『……理解不能ですね。力武CFO、そしてキャルル社長』
赤山の声には、初めて「微かな戸惑い」が混じっていた。
『あなたたちは今、論理的に「100%の死」を選びました。このまま暴動が続けば、特区の経済は破綻し、あなたたちは商人たちから物理的な制裁を受けることになる。……なぜ、安全な敗北(生)ではなく、無意味な破滅を選ぶのですか?』
「だからてめえは、三流の童貞なんだよ」
力武は、凶悪な笑みを浮かべて吐き捨てた。
「てめえの完璧な方程式には、一つだけ足りない変数がある。……『意地』だ。カネでも命でも買えない、人間のどうしようもねえ熱だよ」
力武は、パソコンのキーボードをターンッ!と力強く叩いた。
「俺たちが破滅するかどうか、見てろよ赤山。……てめえが俺たちを『日本の金融システム』から締め出したってんなら、俺たちは……この三日で、日本のタヌキ(若林)すら手出しできねえ【全く新しい経済圏】を作り出してやる!!」
『……非合理の極みです。三日でそのような奇跡が起きる確率は、0.0001%にも満たない』
赤山が淡々と告げる。
「上等だ。その確率、俺の算盤と、大家の意地と、月の姫の頭脳で……100%にひっくり返してやるよ!!」
力武が通信を強制的に切断する。
ツー、ツー、という電子音が鳴る中、社長室の空気は、絶望から一転、反逆の熱気へと完全に塗り替わっていた。
「……言ってくれたな、力武。三日で新しい経済圏を作るなんて、具体的なアテはあるのか?」
信長が、ガラスの外の暴徒を背中で押さえながら苦笑する。
「ああ。日本のメガバンク(円)が使えねえなら、別の『絶対的な価値を持つ通貨(信用)』を担保に引っ張ってくるしかねえ」
力武は、額の汗を拭い、モニターの向こうの輝夜を見た。
「輝夜さん。内閣府の権限じゃなくて、アンタ個人の『政治力』で、ある男に連絡を取ってほしい。……赤山の予測(論理)をぶっ壊すには、この世界で一番『誇り高く、気まぐれで、意地っ張りなバケモノ』を巻き込むしかねえ」
輝夜は、力武の意図を瞬時に察し、静かに微笑んだ。
「……レオンハート王国、獅子王アーサーCEOですね」
「ああ。日本のカネが凍結されたなら、獣の国のカネ(魔石の現物担保)で特区の信用を裏書きさせる。……敵のボスを、俺たちの【連帯保証人】にするんだよ!」
常識外れ。非論理的。
だが、それこそが「人間の意地」が導き出した、反撃の絶対算盤だった。
「社長! 泣いてる暇はねえぞ!」
力武がキャルルを振り返る。
「今から外の連中(商人)の前に出て、時間を稼げ! アタマ下げて、土下座してでもいい! 『三日だけ待て、必ず利子をつけて全額返す』って、大家の魂で説き伏せてこい!!」
「……分かったわ!!」
キャルルは、ダボダボのスーツの襟を正し、トンファーを持たずに、丸腰で暴徒の渦巻く広場へと飛び出していった。
その後ろを、不殺の番犬・信長が命懸けで守るために追う。
「さあ……反逆の時間だ」
力武義正の、常識を嘲笑う狂気の演算が、再び限界を突破して回り始めた。




