獣にも劣る者
来た道を慎重に引き返していく一行。
足元に転がる岩を避け、薄暗い坑道を進んでいく。壁に埋め込まれた鉱石がかすかな光を放っているものの、先の見通しは悪い。
先ほどまでの浮かれた雰囲気は、いつの間にか落ち着いていた。
もっとも、誰も不満を口にすることはなかった。
あれほどの価値がある複合魔石を手に入れたのだ。無事に迷宮を脱出できれば、もう金に困ることもないだろう。
そんな期待を胸に、一行は出口を目指していた。
しかし、数分ほど歩いた頃だった。
「はぁっ……はぁっ……」
不意に、ミレアの荒い呼吸が聞こえてきた。
彼女は足を止めると、壁に手をつき、苦しそうに肩を上下させた。
「……ごめん。ちょっと、待って……」
「どうした?」
レイが振り返る。
ミレアは首を横に振りながら、近くにあった岩場へ腰を下ろした。
「なんだか……気分が悪くて……」
額に浮かんだ汗を拭う。
「合わない酒、飲んだからかな……」
冗談めかして言おうとしたのか、口元がかすかに緩んだ。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
「うっ……」
ミレアは口元を押さえ、深くうつむいた。
「……ミレアもか」
少し離れた場所で、ニグルドが腹部を押さえていた。
「俺も……なんだか、気分が……」
声に力がない。
レイは眉をひそめた。
酒を飲んだ直後ならまだしも、今になって急に具合が悪くなるのは妙だった。
「おい、大丈夫か?」
レイがミレアに近寄ろうとした、そのとき。
――べちゃっ。
湿った音が坑道に響いた。
振り返ると、エドが壁に向かって嘔吐していた。
「エド?」
ニグルドが駆け寄る。
「おい、どうした? 飲みすぎたのか?」
エドは答えなかった。
壁に片手をつき、もう片方の手で喉元を押さえている。
「おい、エド。聞こえてるか?」
ニグルドが肩を掴み、顔を覗き込んだ。
その瞬間、彼の表情が凍りついた。
「……な、なんだよ、お前……」
エドの顔は、異様に腫れ上がっていた。
頬も額も、まるで内側から膨張しているかのように膨らんでいる。皮膚の下には太い血管が浮き出し、首筋には黒ずんだ筋が何本も走っていた。
そして、その目から。
血が流れていた。
涙のように、目尻から頬を伝い、顎へと滴り落ちていく。
「おい……目が……!」
ニグルドが後ずさろうとした、そのとき。
「ニ……グル……ド……」
エドが、かすれた声を漏らした。
「いき……が……っ」
喉の奥で、何かが詰まったような音がする。
「がっ……! ごぼっ……!」
エドは突然、喉元を掻きむしった。
爪が皮膚に食い込み、赤い筋が走る。
それでも足りないとでもいうように、今度は胸元へ手を伸ばした。
衣服を引き裂かんばかりに掴み、必死に爪を立てる。
「が……っ、あ……!」
その顔は苦痛に歪み、血走った目が大きく見開かれていた。
口から、再び血が溢れた。
今度は先ほどの嘔吐とは違う。
泡立った血液が唇の隙間から次々とこぼれ、顎を濡らし、床へ落ちていく。
「ひっ……!」
ニグルドが、思わず声を漏らした。
目の前で起きていることが、信じられなかったのだろう。
ほんの数分前まで、エドは普通に歩いていた。
酒を飲み、魔石の価値に驚き、仲間たちと喜んでいた。
それが今は、まともに言葉を発することすらできず、自分の身体を掻きむしっている。
「おい、しっかりしろ! エド!」
ニグルドが肩を揺さぶる。
だが、エドはもはや返事をすることもできなかった。
その身体が大きく痙攣する。
そして、壁にもたれたまま、ずるりと崩れ落ちた。
「エド……?」
ニグルドが手を伸ばす。
しかし、その手が触れる前に、自分の視界がぐらりと揺れた。
「……あ?」
頬に、ぬるりとした感触があった。
指先で触れる。
赤い。
「なんだ、これ……」
ニグルドの目元からも、血が流れ始めていた。
頬が膨れ、皮膚の下を血管が浮き上がっていく。
「う、嘘だろ……」
ニグルドは自分の顔を押さえた。
呼吸が荒くなる。
喉が焼けるように熱い。
胸の奥から、何かがせり上がってくる。
「がっ……ごほっ!」
咳き込んだ拍子に、口元から血が飛び散った。
「なんだよ……! 何が起きてるんだ!」
その声が坑道に響いた。
レイは、目の前の光景を見つめていた。
エドの異様な変貌。
ニグルドにも現れた、同じ症状。
そして、先ほどから苦しみ続けているミレア。
偶然で片づけられる状況ではなかった。
レイの脳裏に、つい先ほどの光景が蘇る。
スマルグが酒を取り出し、全員にカップを配った。
そして、杯を掲げて乾杯した。
自分も、あの場で酒を飲んでいる。
だが、今のところ身体に異変はない。
違いは何だ。
そこまで考えたところで、レイは一つのことに気づいた。
スマルグが用意したカップ。
酒そのものではなく、カップに何かが仕込まれていたのではないか。
そう考えれば、今起きていることにも説明がつく。
レイはゆっくりと顔を上げた。
視線の先には、スマルグがいる。
彼は、苦しむ仲間たちを見ても、少しも慌てていなかった。
助けようとする様子もない。
ただ、冷めた目で眺めている。
「……スマルグ」
レイが名を呼ぶ。
その声に、スマルグが視線を向けた。
「お前……まさか……」
「何を驚いてやがる」
スマルグは、つまらなそうに言った。
その一言で、レイの疑念は確信へと変わった。
「てめぇ……!」
ニグルドが吠えた。
苦痛に顔を歪めながらも、腰の短剣を引き抜く。
「ふざけやがって……殺してやる!」
血に濡れた手で短剣を握り、スマルグへ突進する。
しかし、その動きは鈍かった。
スマルグは迫る腕を軽く払いのけると、ニグルドの手から短剣を奪い取った。
「なっ……!」
次の瞬間、刃がニグルドの首筋に突き立った。
「がっ……!」
ニグルドの身体が跳ねる。
傷口から鮮血が噴き出し、スマルグの腕を濡らした。
それでもニグルドは、倒れまいと踏みとどまった。
「て……めぇ……!」
震える腕を伸ばし、スマルグに掴みかかろうとする。
指先が服に触れた。
だが、それ以上の力は残っていなかった。
「チッ、きたねぇな……」
スマルグは舌打ちし、ニグルドの腹を思い切り蹴り飛ばした。
「ぐはっ……!」
ニグルドの身体が吹き飛び、岩壁の近くに転がる。
短剣が床に落ち、乾いた音を立てた。
ニグルドは首元を押さえようとしたが、手は途中で止まった。
代わりに、胸元へ伸びる。
血に濡れた指が、小さなペンダントを握りしめた。
「……かあ……」
かすかな声が漏れる。
何かを言おうとしているようだった。
しかし、言葉は続かなかった。
ニグルドの指先から力が抜けていく。
握りしめていたペンダントが床に落ちた。
その音を最後に、彼は動かなくなった。
レイは、息を呑んだ。
目の前で人が殺された。
毒で弱ったところを狙われ、抵抗もできないまま命を奪われたのだ。
スマルグは、短剣についた血を無造作に振り払い、何事もなかったかのように立ち上がった。
「……お前、よくも……!」
レイの手が短剣の柄にかかる。
怒りが込み上げてくる。
だが、今は感情に任せて飛びかかるわけにはいかなかった。
相手は、毒を仕込んだカップを用意し、仲間たちが苦しむことを承知でここまで連れてきた男だ。
しかも、ニグルドを殺した手際は迷いのないものだった。
不用意に動けば、自分も殺されかねない。
レイはスマルグを警戒しながら、腕の中で傾いた身体を慌てて支えた。
「……っ、ミレア!」
ミレアが岩場から滑り落ちかけていた。
レイは彼女の肩を抱き、床に倒れないように支える。
「おい、しっかりしろ!」
「う……ぐっ……!」
ミレアは喉を押さえ、激しく咳き込んだ。
その口から、血と胃液が混ざった吐瀉物が溢れる。
彼女の身体は小刻みに震えていた。
先ほどまでの面影は、すでに薄れ始めている。
顔は異様に腫れ、目元から血が滲んでいた。
呼吸をするたびに喉が鳴り、苦しそうに胸が上下する。
「はぁっ……はぁっ……」
ミレアは必死に息を吸おうとしていた。
だが、吸い込むたびに顔が歪む。
「レイ……」
「なに……これ……」
ミレアの目が、レイを見上げる。
恐怖と苦痛に濡れた瞳だった。
「どうして……こんな……」
「……毒だ。スマルグが仕込んだんだ」
レイは短く答えた。
隠しても仕方がない。
ミレアは、その言葉を聞いてスマルグのほうへ顔を向けた。
「あんた……!」
怒りに満ちた声を上げようとした。
しかし、直後に激しく咳き込み、言葉が途切れる。
「ごぼっ……! げほっ、げほっ……!」
レイは彼女の身体を支え直した。
「無理に喋るな!」
どうにかしなければならない。
このままでは、ミレアも助からない。
そう判断しても、すぐに打てる手がなかった。
解毒薬があるのか。
この毒に効く薬が存在するのか。
そもそも、どれほどの速さで身体を蝕む毒なのか。
わからないことばかりだった。
それでも、目の前で苦しんでいる人間を放っておくことはできなかった。
「立てるか? ここから離れるぞ!」
レイはミレアの身体を支え、立ち上がらせようとした。
だが、彼女の膝は力なく折れた。
「……む、り……」
「しっかりしろ!」
レイが声を強める。
ミレアは首を振った。
唇が震え、かすかな呻き声が漏れる。
「苦しい……」
その声には、もう怒りもなかった。
ただ、耐えがたい苦痛だけがあった。
「レイ……お願い……」
ミレアの指が、レイの服を掴んだ。
力を振り絞るように、ぎゅっと握りしめる。
「……殺して……」
レイは、一瞬言葉を失った。
「……何?」
「お願い……もう……」
ミレアの顔が苦痛に歪む。
「もう、耐えられない……」
涙が頬を伝った。
その涙に血が混じり、赤い筋となって顎へ流れていく。
「レイ……お願い……」
レイは、彼女の目を見つめた。
冗談でも、弱音でもない。
ミレアは本気で懇願していた。
この苦しみから解放してほしいと。
「……待て。何か方法があるかもしれない」
レイはそう言った。
だが、自分でも確信が持てなかった。
ミレアの容態は急速に悪化している。
今この場で毒を治す手段など、思いつかなかった。
「お願い……レイ……」
ミレアの指が、さらに強く服を握りしめる。
「もう……嫌……」
レイは唇を噛んだ。
目の前で苦しむ彼女を救いたい。
だが、助ける方法が見つからない。
何もできずに苦しませ続けることが、本当に彼女のためなのか。
答えなど、簡単に出せるはずがなかった。
ミレアの呼吸が、また乱れた。
「……っ、あ……!」
身体が大きく震える。
レイは、彼女の肩を抱き寄せた。
「……わかった」
声が掠れた。
「……すぐいかせてやる」
レイは短剣を抜いた。
柄を握る手が震えていた。
できる限り苦しませないように。
それだけを考え、刃を構える。
「……すまない」
ミレアは、かすかに頷いた。
レイは息を詰め、短剣を突き立てた。
ミレアの身体が、小さく震える。
彼女はレイの服を強く握りしめた。
その指先には、まだ力が残っていた。
レイは目を伏せ、彼女の身体を支え続けた。
やがて、服を掴む指が少しずつ緩んでいく。
強く握りしめていた手から力が抜け、指先がゆっくりと垂れ下がった。
ミレアは、もう動かなかった。
「…………」
レイは短剣を引き抜き、静かに彼女の身体を横たえた。
目の前には、三人の冒険者が倒れている。
エド。
ニグルド。
ミレア。
ほんの数分前まで、彼らは金貨の山を夢見ていた。
あの複合魔石を売れば、何万枚もの金貨になる。
もう危険な迷宮に潜る必要もなくなる。
そんな話をして、酒を酌み交わしていた。
それが今は、血に濡れた坑道に三人の身体が横たわっている。
レイはゆっくりと顔を上げた。
スマルグが、こちらを見ていた。
仲間たちを毒殺し、抵抗したニグルドを自らの手で殺した男。
その顔には、罪悪感も後悔も見当たらない。
レイの胸に、冷たい怒りが広がった。
「……スマルグ」
短剣を握り直す。
「お前…なんて事を…」
スマルグは、薄く笑った。
その笑みを見た瞬間、レイは悟った。
この男は、まだ何かを隠している。
そして、自分もまた、決して安全ではないのだ。
スマルグが、ニヤリと笑った。
口の端を吊り上げたその笑みには、先ほどまで仲間たちと酒を酌み交わしていた男の面影など、欠片も残っていなかった。
そこにあるのは、他人の命を踏みにじったことへの罪悪感も、死者への憐れみもない。むしろ、自分の思いどおりに事が運んだことを喜ぶ、浅ましい満足感だった。
レイは、そんな男の顔を見て、心の中で唾を吐き捨てた。
人間は、どこまで醜くなれるのだろう。
金のために仲間を殺し、死にゆく者を前にして笑う。そして、次に何をしようとしているのかも隠そうとしない。
その下卑た笑顔を見ているだけで、胸の奥から吐き気にも似た嫌悪感が込み上げてくる。
レイは視線を落とした。
腕の中で力なく横たわるミレア。その瞳からは、すでに光が失われていた。
つい先ほどまで、あれほど生き生きとした声で話していた少女が、もう二度と口を開くことはない。
レイは彼女の顔を見つめ、そっと手を伸ばした。
血と吐瀉物に汚れた頬に気にする事もなく、掌で瞼をゆっくりと下ろしていく。
助けられなくて、すまない、
それだけを胸の内で呟き、レイは静かに手を離した。
そして、顔を上げる。
「……魔石を独り占めするつもりだな」
その声に、先ほどまでの優しさはなかった。
スマルグは答えず、ただ薄笑いを浮かべている。
「なぜ俺には毒を盛らなかった?」
「カップに毒を仕込んでいたんだろう? お前のような男が、最初から人数分のカップを用意していなかったはずがない」
スマルグの口元が、ぬたりと歪んだ。
「……へえ。そこまでわかってたのか」
笑みを浮かべたまま、スマルグは舌先で唇を湿らせた。
その仕草が、レイにはひどく不快だった。
まるで獲物を前にした爬虫類のような、湿り気を帯びた笑み。人間の顔をしていながら、その表情には人間らしい温度が感じられない。
レイの背筋を、ぞっとするような悪寒が這い上がった。
「そうさ。もちろん、カップは人数分用意していた。こういう時のためにな」
「……なら、なぜ俺だけ」
レイが問い返すより先に、スマルグが一歩踏み出した。
靴底が、石の床をこすった。
また一歩。
レイが警戒を強めるのを見て、スマルグはますます愉快そうに目を細めた。
「お前……女だろ?」
その言葉を聞いた瞬間、レイの中で散らばっていた疑問が、一つの答えに繋がった。
毒を盛られなかった理由。
自分だけが生かされている理由。
そして、スマルグが今、自分に向けている視線の意味。
理解した途端、喉の奥に反吐が込み上げた。
こいつは――。
レイは思わず奥歯を噛み締めた。
スマルグの視線が、レイの顔から首筋へ、そして身体へとゆっくり下りていく。
品定めでもするかのような、ねっとりとした目つきだった。
その目には、相手の意思も尊厳も映っていない。
ただ、自分の欲望を満たすための獲物として、レイの身体を眺めている。
視線が肌をなぞるたび、見えない汚れを塗りつけられているような感覚がした。
レイは、今すぐその目を抉り出してやりたい衝動を覚えた。
「前から気づいていたのさ」
スマルグは腰の短剣に手をかけると、わざとゆっくりと引き抜いた。
刃が、薄暗い坑道の中で鈍く光る。
「俺はな、匂いでわかるんだよ。」
その声には、得意げな響きがあった。
「最初に気づいた時は驚いたぜ。まさか、女が紛れ込んでるとは思わなかったからな」
スマルグは短剣を指先で弄びながら、じりじりと距離を詰めてくる。
「それからずっと考えてた。いつか、お前のその澄ました顔を、苦痛で歪ませてやりたいってな」
レイの目が、怒りに見開かれた。
「お前……」
「なんだ? 言いたいことでもあるのか?」
スマルグはわざとらしく首を傾げた。
「お前、いつも俺のことを見下してやがったろ?」
笑みが深くなる。
「口に出さなくたってわかるんだよ。そういう目をする奴はな。俺が何を言っても、何をしても、心のどこかで馬鹿にしてやがる」
スマルグの声から、愉快そうな響きが少しずつ消えていった。
代わりに滲み出てきたのは、長いあいだ腹の底に溜め込んできた、ねじくれた憎悪だった。
「だから、いつか思い知らせてやろうと思ってたのさ…そう…」
吐き捨てるように言いながらも、その目はレイの身体を追い続けていた。
憎しみだけではない。
その奥にあるのは、欲望。そして、自分より優れていると感じた相手を、力ずくで屈服させることへの歪んだ執着だった。
相手が怯え、抵抗し、屈辱に顔を歪める姿を想像することでしか、自分の価値を確かめられない。
スマルグの笑みは、そんな男の内側を醜くさらけ出していた。
レイは、ゆっくりと剣を抜いた。
刃が鞘を滑る音が、静まり返った坑道に響く。
怒りはあった。
ミレアたちを殺された怒りも、目の前の男への嫌悪も、確かに胸の中で燃えている。
だが、それ以上にレイを不快にさせたのは、スマルグが自分を殺す必要すらないと考えていることだった。
毒を盛る価値もない。
すぐに殺す価値もない。
自分の欲望を満たしてから始末すればいい――。
そんなふうに、こちらの命も身体も、すべて自分の所有物であるかのように考えている。
その傲慢さが、虫が肌の上を這い回るような生理的嫌悪を呼び起こした。
レイは剣を握る手に力を込めた。
目の前の男を斬り伏せる。
それだけでいい。
こいつの歪んだ欲望に、これ以上付き合うつもりはなかった。
スマルグは短剣を握り直し、腰をわずかに落とした。
獲物に飛びかかる寸前の獣のような姿勢だった。
「お前をぶち犯してから殺してやろうってな!」
下卑た笑い声が、坑道に響き渡る。
次の瞬間、スマルグの足が地面を蹴った。
短剣を突き出し、レイへと襲いかかる。
レイは迫り来る刃を見据え、剣を構えた。




