ロゼル視点
森の薄暗い小道を、ロゼルは一人で進んでいた。
ピンクのスカートがひらひらと揺れるたび、森の緑に不自然な色が混ざる。嫌悪感を押し殺し、彼女は自分の服装に視線を落とす。
「……油断させる為とはいえ、これはないよな…
」
小さく呟き、固く拳を握る。赤い瞳は周囲の陰影を鋭く捉えていた。
小道は奥へと続き、足元には落ち葉と小枝が散らばる。
人の気配はない。だが、それは安心材料ではなかった。
森は静かすぎるほどに静かで、生命の気配が一瞬止まったように感じられる。
ロゼルは深呼吸を一つし、スカートの裾を軽く抑えながら歩みを進める。
背中にかかる薄布の感触が戦闘装備の重量感を思い出させ、微かに苛立ちが込み上げる。
だが、彼女は立ち止まらない。
任務は一人で進めるしかない。アゼリアとの別れを思い出し、心の奥で小さく決意を固める。
「……やるしかないか」
森の影が深まる中、ロゼルの赤い瞳だけが、昼間よりも鮮烈に光を帯びている。
その瞳は、静かに潜む危険を探し出そうと、森の闇を切り裂くようだった。
そのときだった。
――ふ、と。
風が、止んだ。
揺れていた葉が、ぴたりと静止する。
さっきまで耳にあった虫の音も、いつの間にか消えていた。
ロゼルの足が、わずかに止まる。
「……」
視線だけが動く。
右。
左。
何も――いない。
だが。
「……いるな」
小さく、確信を落とす。
その判断は、直感ではない。
迷宮で何度も“死にかけた経験”が積み上げた違和感だった。
視界に映らない気配、音の消え方、風の流れの途切れ方――その全てが揃った時だけ生まれる“空白”。
ロゼルはそれを知っている。
敵がいる時、森や迷宮は“静かになりすぎる”。
自然ではなくなる。
今が、それだった。
ロゼルは、その場から動かなかった。
不用意に動けば、位置を晒す。
相手が“見ている側”なら、それは最悪手だ。
代わりに――呼吸を落とす。
一つ。
二つ。
胸の上下すら抑え、森の中に溶ける。
(……どこだ)
視線は動かさない。
だが、意識は広げる。
地面。
落ち葉の沈み方。
枝の歪み。
空気の“圧”。
迷宮で叩き込まれた感覚が、ひとつひとつを拾い上げていく。
(……重い)
ほんのわずかに。
空気が沈んでいる場所がある。
風は止まっているはずなのに、
そこだけ“滞留”している。
(デカいな……)
小型じゃない。
人間サイズ以上。
いや――それ以上。
だが、決定的な音がない。
足音も、
呼吸も、
衣擦れも。
「……随分、行儀のいい隠れ方だな」
ロゼルはわざと、口を開いた。
その声は、森に溶けるように低い。
反応は――ない。
(……無視か)
ロゼルの口元が、わずかに歪む。
“理解している”。
こちらの挑発を無視するという判断。
それだけで、相手の質が分かる。
ロゼルは、ゆっくりと一歩踏み出した。
わざとだ。
落ち葉を踏む。
サク、と小さな音が鳴る。
その瞬間――
「……」
“ズレた”。
空気が、ほんのわずかに動いた。
視線は動かさない。
だが、確信する。
(……今だ)
ロゼルの足が、地面を蹴る。
――だが、その瞬間。
「判断が早いな」
低い声が、背後から落ちた。
ゾワッ、と背筋が粟立つ。
同時に――
ブンッ!!
空気を裂く音。
振り向くより速く、ロゼルは身体を沈めた。
直後、頭上を“何か”が通り過ぎる。
重い。
速い。
そして――殺意が、正確すぎる。
地面に着地しながら、ロゼルは振り返る。
そこにいたのは――
異様に発達した筋肉。
無駄のない巨躯。
剃り上げられた頭。
だが、その目だけが違う。
冷たい。
濁りのない殺意。
「……ガキか?」
男は、淡々と呟いた。
驚きはない。
嘲りもない。
ただ、“対象を確認しただけ”の声。
ロゼルは立ち上がる。
スカートの裾を払いながら、
赤い瞳でまっすぐに見据える。
「……てめぇが村人をおかしくした元凶か?」
男は首をわずかに傾けた。
「違うな」
一拍。
「俺は、“処理役”だ」
その言葉と同時に――
地面が爆ぜた。
踏み込み。
速いとかいう次元じゃない。
“消えた”ように見える加速。
「チッ――!」
ロゼルの目が見開く。
振り抜かれる拳。
だがロゼルは――
半歩、ずらす。
ギリギリで外す。
頬をかすめる風圧が、肌を裂く。
(読める……が――)
(重い!)
反撃の踏み込み。
だが――
「遅い」
ドンッ!!
横からの一撃。
腕で受けた瞬間、骨が軋む。
ロゼルの体が吹き飛び、地面を滑る。
土と落ち葉が舞う。
止まる。
沈黙。
その向こうで、男は動かない。
追撃しない。
ただ、見ている。
「……なるほど」
淡々とした声。
「餌にしては、悪くない」
ロゼルはゆっくりと立ち上がる。
頬から血が垂れる。
だが――
笑った。
「……スカート履いた甲斐があるってもんだ」
赤い瞳が、強く光る。
「ビンゴだぜ」
森の空気が、張り詰める。
ロゼルは、ゆっくりと首を鳴らした。
コキ、と小さな音。
さっきまで受けた衝撃を、まるで無かったことのように流す。
「……軽く殴ったつもりだったが」
男――ザインが呟く。
「立つか」
ロゼルは肩を回す。
スカートの裾を指でつまみ、軽く払いながら。
「効くわけねぇだろ」
吐き捨てるように言う。
赤い瞳が、まっすぐにザインを捉える。
「……てめぇだろ」
低い声。
だが、確実に“刺す”声音。
「村人攫って――おかしなことしてんのは」
森の空気が、わずかに張り詰める。
ザインは動かない。
視線も逸らさない。
ただ、淡々とロゼルを見返す。
そして――
「答える理由がないな」
感情のない声。
本当に、ただの事実として返しただけの一言。
ロゼルの口元が、わずかに歪む。
「……そうかよ」
一拍。
その目が、わずかに細まる。
「その反応だけで十分なんだよ…」
次の瞬間――
踏み込んだ。
ドンッ!!
地面が弾ける。
空気が遅れて爆ぜる。
「てめぇをぶち殺す理由にはな」
言葉の終わりと同時に――
ロゼルの拳が、すでに届いていた。
ドゴォッ!!
衝撃が、森を叩き割った。
ザインの体が弾けるように吹き飛び、地面を削りながら後方へ叩きつけられる。
木が折れる。
地面が抉れる。
それでも止まらず――ようやく転がるようにして止まった。
土煙が、遅れて立ち上る。
静寂。
ロゼルは、その場から一歩も動かなかった。
拳を下ろす。
細い腕。
軽い服。
場違いなピンクのスカートが、ひらりと揺れる。
「……ざまぁみろ」
興味なさそうに、吐き捨てる。
煙の奥で――
ズズッ……と、何かが擦れる音。
ザインが、立ち上がろうとする。
腕が歪んでいる。
肩が外れている。
だが、それでも立とうとして――
止まった。
「……ッ」
足に力が入らない。
理解が、遅れて追いつく。
(今のは……なんだ)
一撃。
ただの一撃で。
体の機能が、一瞬“止められた”。
「……は……」
呼吸が乱れる。
額から、汗が伝う。
一筋。
また一筋。
気づいた時には――
片膝が、地面についていた。
ドサ、と鈍い音。
その事実に、自分で遅れて気づく。
(……俺が?)
視線が上がる。
そこにいるのは――
小柄な少女。
華奢な体。
無防備な服。
だが。
一歩も動かず、こちらを見下ろしている。
その赤い瞳だけが――異様に冷たい。
「……貴様」
声が、わずかに低くなる。
「何者だ」
ロゼルは、ゆっくりと一歩踏み出した。
落ち葉が、かすかに鳴る。
金色の髪が視界にかかる。
鬱陶しそうに、それを指で払う。
その仕草だけが、妙に落ち着いていた。
「……ただの冒険者さ」
軽く言う。
だが、その声には余裕と圧が同居している。
赤い瞳が、膝をつくザインを射抜いた。
「で――」
わずかに首を傾ける。
「テメェ、何者だ?」
間。
「何の目的で、村人を攫ってる?」
ザインは答えない。
だが、目だけはロゼルを測っていた。
(……この圧)
目の前の少女。
華奢な体。
場違いなピンクのスカート。
それなのに――
「……冒険者だと?」
ザインが、低く呟く。
「Aランク冒険者か?」
その声には、警戒と確認が混ざっていた。
ロゼルは一瞬だけ目を細める。
そして――
「あ?」
間。
「Fランクだけど?」
静かに言った。
一瞬、森の空気が止まる。
ザインの表情が、わずかに崩れる。
「……Fだと?」
理解が追いつかない。
(この圧で……F?)
(あり得ない)
だが、その“あり得なさ”が逆に確信に変わる。
――異常だ、と。
ザインの目が細くなる。
「……虚偽のランクを言っているのか?」
低い声。
疑いというより、結論に近い響きだった。
「こんなFランクがいてたまるか」
次の瞬間――
空気が弾けた。
ドンッ!!
ザインの踏み込み。
さっきより明らかに速い。
殺意も、迷いもない。
ただ“排除”だけに特化した一撃。
拳がロゼルの顔面へ迫る。
――だが。
スッ。
ほんの数ミリ。
本当に紙一重で、ロゼルの顔が横に流れる。
拳は空を裂く。
髪が、遅れて揺れる。
「……ッ!」
ザインの瞳が揺れる。
(またか)
今のは偶然じゃない。
“当たらない位置にいた”じゃない。
“当てさせない距離で見ていた”動き。
ザインは間を空けない。
そのまま回転。
肘。
裏拳。
踏み込みからの膝蹴り。
連撃。
連撃。
連撃。
ドンッ、ドンッ、ドンッ!!
しかし――
全部、届かない。
いや、“当たる寸前で消える”。
ロゼルは避けているようでいて、避けきっていない。
ギリギリ。
ほんの数ミリ。
皮膚に触れるかどうかの距離で、全てが流れていく。
わざとだ。
まるで――
「……遊んでるのか?」
ザインの声が、低く漏れる。
その瞬間。
ロゼルの赤い瞳が、ほんのわずかに動く。
目線はブレない。
ただ、ザインの攻撃の“間”だけを見ている。
風の抜け方。
拳の軌道。
体重移動の癖。
全部を冷静に拾いながら。
その瞳は――恐ろしく静かだった。
長いまつ毛が、わずかに影を落とす。
その一瞬だけ、戦闘の中なのに“綺麗”だった。
「……悪いけど」
ロゼルの声は軽い。
「当てる気あんなら、もうちょい工夫しろよ」
次の踏み込み。
ザインの拳が再び放たれる。
だが――
また、届かない。
紙一重。
呼吸の間。
視線の角度。
その全部を“読まれた上で外されている”。
ザインの背中に、冷たい汗が伝う。
(こいつ……)
(全部見えてやがる)
ロゼルは小さく息を吐いた。
つまらなそうに。
でも余裕のまま。
「遅ぇんだよ」
その声だけが、妙に静かに森へ落ちた。




