奈落 ― 三日目
冷たい石の上で、ロゼインは目を覚ました。
背中に触れている岩が、氷のように冷たい。
湿った冷気が服を通して、ゆっくりと体の奥に染み込んでくる。
暗い。
相変わらず、光はない。
奈落の闇は、ただ暗いだけではない。
重い。
視界を塞ぐ黒い霧のように、空間そのものが沈んでいる。
人の目では何も見えない。
完全な黒だ。
唯一の光は――
地面のそばに置いた、小さなカンテラ。
その火が、頼りなく揺れている。
油はもうほとんど残っていない。
火は細く、弱い。
少し風が吹けば消えそうなほど頼りない炎だ。
それでも。
それが消えたら終わる。
奈落の闇は、
光のない人間を容赦なく飲み込む。
⸻
喉が、焼けるように乾いていた。
舌が口の中に張り付く。
口の奥がひび割れているように痛い。
唾すら出ない。
ロゼインは、震える手で腰の水袋を探った。
革袋は軽かった。
わかっている。
だが、それでも振る。
カサ……
乾いた音だけがする。
昨日、最後の一滴を飲んだ。
わかっていた。
それでも振る。
人間は愚かだ。
奇跡を期待してしまう。
もしかしたら、
ほんの一滴くらい残っているんじゃないかと。
もちろん、何も出ない。
⸻
腹も痛い。
二日前から、何も食べていない。
胃が、時折痙攣するように縮む。
腹の奥が空洞になったような感覚。
だが、空腹より辛いのは――
寒さだった。
奈落の空気は冷たい。
地上の冬とは違う。
湿った冷気だ。
肺に入る空気まで冷たい。
吸うたびに、胸の奥がじんと痛む。
服はもう血と泥で硬くなっている。
乾いた血が布を固め、
動くたびに肌を引っ張った。
⸻
ロゼインは、壁にもたれた。
石壁は濡れている。
地下水が染み出しているのだろう。
冷たい水が、背中の服にじわりと広がる。
右腕が動かない。
遠征隊が壊滅した時、岩に叩きつけられた。
折れているかもしれない。
指を少し動かすだけで、
鈍い痛みが腕の奥まで走る。
⸻
思い出す。
あの瞬間を。
思い出したくなくても、
頭の奥に焼き付いて離れない。
⸻
ユニークモンスター奈落鬼バルガス。
あの怪物。
巨体。
人間の二倍はある体。
岩の塊のような筋肉。
そして、あの顔。
鬼。
だが、人の顔でもあった。
歪んだ笑み。
目が細く歪み、
口の端が吊り上がる。
まるで――
子供が虫を潰して遊ぶ時のような笑み。
楽しんでいた。
殺すことを。
⸻
Bランク冒険者。
鋼の重戦士。
遠征隊で一番強かった男。
グラド。
大斧を構え、叫んだ。
「来い、化け物ォ!」
通路に声が響く。
鋼の鎧が鳴る。
斧の刃がカンテラの光を反射した。
誰もが思った。
勝てる。
あの男なら。
⸻
次の瞬間。
骨が砕ける音がした。
ただそれだけだった。
斧も、鎧も、意味がなかった。
バルガスは片手でグラドを掴み――
岩壁に叩きつけた。
肉が潰れる音。
骨が折れる音。
湿った何かが飛び散る音。
それで終わり。
戦いではなかった。
処刑でもない。
遊びだった。
⸻
ロゼインは、頭を振った。
やめろ。
思い出すな。
思い出すと震えが止まらない。
⸻
ポタ……
水滴の音がした。
遠くで。
石の奥から響くような音。
ポタ……
ポタ……
ポタ……
静かな奈落の中で、
その音だけが妙に大きく響く。
⸻
ズ……
ズズ……
別の音が混じった。
何かを引きずる音。
遠く。
だが確かに聞こえる。
岩の上を、
重いものが擦れる音。
ゆっくり。
ゆっくり。
⸻
ロゼインは息を止めた。
耳を澄ます。
心臓がうるさい。
鼓動が耳の奥で響く。
ドクン。
ドクン。
この音だけで、
魔物に気づかれるんじゃないかと思うほど大きい。
⸻
カリ……
カリ……
カリ……
今度は別の音。
石を削るような音。
爪か。
牙か。
それとも骨か。
わからない。
奈落では、
何の音なのか分からないことが一番怖い。
⸻
奈落には魔物がいる。
それは知っている。
だが、この暗闇では――
何がどこにいるのかわからない。
どこから来るのかも。
どれくらい近いのかも。
それが一番怖い。
⸻
ロゼインは立ち上がろうとした。
足が震える。
膝に力が入らない。
体がもう限界だ。
三日。
水なし。
食料なし。
怪我。
寒さ。
恐怖。
体の中の何かが、もう終わりだと言っている。
⸻
「……はは」
乾いた笑いが出た。
喉が裂けそうに痛い。
声が掠れる。
⸻
「ここで終わりかよ……」
冒険者。
夢。
金。
名声。
全部。
奈落の石の上で終わる。
誰にも知られず。
誰にも見つけられず。
ただ骨になる。
⸻
その時だった。
風が吹いた。
奈落の奥から。
ひゅう、と細い風。
冷たい風。
その風に、臭いが混じっていた。
腐った臭い。
古い血。
湿った肉。
そして――
骨の臭い。
⸻
ロゼインは顔を上げた。
カンテラの弱い光の先。
通路の奥。
ぼんやりと白いものが見える。
⸻
骨。
⸻
床一面に。
折れた剣。
砕けた鎧。
錆びた槍。
革袋。
破れたマント。
そして――
大量の骨。
人間の骨。
白く乾いたもの。
黒く変色したもの。
砕けた頭蓋。
ここでも遠征隊が死んだのだろう。
何十人。
いや、もっとかもしれない。
奈落は、
人間を食べてできている。
⸻
ロゼインはふらつきながら歩いた。
骨を踏む。
パキッ。
乾いた音がする。
装備があれば。
水があるかもしれない。
食料が。
何か。
何でもいい。
生きるためなら。
⸻
その時。
骨の山の奥で。
カチャ……
音がした。
⸻
ロゼインは止まった。
呼吸も止まる。
カンテラの光が揺れる。
⸻
骨の山の奥。
白いものが、
ゆっくり動いた。
⸻
骨が。
動いた。




