備中縦断 逃走
「確かなのか!」
そう聞き返さずにはいられなかったが、可能性は十分にあった。
「旗指物の久陽紋、しかと見ました」
伊賀久隆との縁組で和解したとはいえ、各地の大名たちが和睦を破棄して戦を始めている今、松田輝元が動かないはずがない。
「どの辺りまで来ている?」
背後の伝令に振り返りもせず話しかけながら、馬の手綱を引いて、融を背に押し上げてから、肩に薄布をかけるように軽く優雅にその後ろの鞍にまたがる。一刻も無駄にできないからこそ、慌てた素振りも見せない動作で。
「まだ建部に差し掛かる辺りです。松田の兵は、急ぐ様子もなく街道いっぱいに広がって隊列を組み、槍を構えて進んでおりました」
退路を断たれて驚きはしたが、落ち着いた素振りを見せる事で、頭の中も冷ややかに冴えて来た。
建部は備前と美作の境で旭川が大きく蛇行している。この辺りで見張れば、高瀬舟で川を下ろうとする相手を確実に捕らえられるし、進軍速度からしても追いかけるではなく、逃げて来るのを待ち受けているなら、それ以上進まず陣を敷いているはずだ。
当てもなしに待っているわけがない、もちろん追い詰める手を打っていると考えられる。
高田城が攻めた三村家の部隊が北にいるのだから、南へと進軍する三村の兵が追い詰めて、松田の兵で捕らえるという策であろうか。
「急ぐぞ!」
短く命令を下すと、馬を走らせた。
南北から挟まれる前に動かねばなるまいと、兵士たちも素早く指示に従ったが、街道が東へ分岐する付近で速度を緩めようとするが、直家は止まる気配さえ見せない。
「直家様、お待ちください。天神山城へ向かうならば、東の街道に入らねば……」
兵士は直家を慌てて止めようと馬を寄せたが、速度を緩めず先を指し示した。
「まだ先へ、北へ進め!」
「これ以上先へ進めば、三村家の兵と鉢合わせしなくとも、江見氏の勢力圏内から出られなくなってしまいます!」
「目指す場所は、この先の渡し場だ」
直家が目指したのは東へ通じる街道ではない。川を渡り、西へ向かう街道だった。
高田城を落としたとはいえ、城攻めの後、直ぐに追手を差し向けられるほど三村家の軍には余裕があるはずがない。それなのに松田輝元が、迷わず待ち伏せに徹しているのは、更に策を講じているからだ。南を塞がれれば、東の街道へ抜けようとするのは当然の事。尼子派として協力体制にあった江見氏に街道を塞がせるのは、三村家と組むよりも容易だろう。
だが、西へ向かうとは思うまい。
川を渡る決断ができるのも、高田城までの渡し場には、船の他に浮橋も用意していたからだ。縄と船に乗せた板で必要な時だけ渡れるように架けられる簡易な橋は、合戦のためではなく、より多くの荷物を運ぶために用意した物だが、馬に乗って渡る事も出来る。
「直家様、今、後方を警戒に渡って居た者も渡り終えました。追手を阻むため、橋を落としてもよろしいですか?」
「何を言っている! 橋はそのままだ、決して壊すんじゃないぞ」
「それでは、追手が来れば、すぐに追いつかれてしまうかもしれませんが……」
「その時は、その時だ。しかし、追いつけはしまい」
直家が橋を落とさなかったのは、橋がこれからも民の生活に必要だからという感傷的な理由だけではなかった。
橋を落とせば追手に進んだ方向を教えるようなもの。それを見た追手は何としても川を渡って追ってくる。だが、橋が架けられたままだと待ち構えられているのか、又は渡ったと見せかけるための罠かと警戒して、追いかけるのをためらわせられる。
それに備中は三村家の本拠地である。月山富田城攻めに高田城攻めと、かなりの人数が駆り出され、本拠地に近いほどもぬけの殻と言っても良い筈だが、万が一、引き返さねばならないときは、橋があったほうが良い。
しかし、村人も遠出を控えているのか、寂れた道を選べば警戒せずとも人に出会う事もなかったが、備中の地理に詳しい者もおらず、不慣れな山道を進んでいる内に日も暮れ始めた。直家の精鋭だけなら夜通し走る事も出来るが、高田城から逃げ出してきた融も居るためどこかで休める場所を探さねばならなかった。
「直家様、この先に小さな神社があります。そこで夜を明かしましょう」
「神社か、どうせこの人数の兵で泊まるわけにはいかんし、備中を出るまでは警戒を緩めず、山の中で夜を明かした方がいいかもしれんが」
「神職の者が暗殺に手を貸すとも思われません。姫様のためにも、少数の護衛をつけて宿を借りましょう。残りの兵士たちは、山の中に散開して夜を過ごせば、周囲の警戒にもなりますし」
融の小さな体では、馬の背に乗り続けて、さらに野宿では体力が持ちそうにないと、兵士たちも気にかけていた。
「そうするか」
直家もそれには同意しなければならなかった。
護衛と言っても、余り人数を引き連れて行いけば、相手に無用の警戒をさせるため、数人の供周りを連れて神社へと向かった。
「御免、一晩、宿を借りたいのだが」
「これは、これは、宇喜多の御殿様。このような粗末なところへ、お立ち寄りくださいまして、ありがとうございます」
隠すつもりはなかったが、名のるまでもなく、こちらの正体を知っており、愛想のよい住職たちのやけに丁寧な歓迎ぶり。ぎゅっと気を引き締めて警戒を強めるのに十分な理由だった。
「宇喜多様が戦で焼かれた、多くの神社を復旧していただいたと聞き及んでおります。我々は、元は同じ吉備国の者です。備前の神社仏閣が受けた恩は、我らが受けた恩も同じ、どうぞ、ご安心しておくつろぎ下さい」
「……そうか、かたじけない」
直家は短く謝辞を述べたが、相手の言葉を鵜呑みに信じてはいなかった。しかし、温かい食事と柔らかな布団にありつけるのはありがたく、休めるうちに休んでしまおうとも考えていた。
小さな神社にしては奮発したと思われる食事が出され、過分なもてなしを受けたが、酒は辞退し、寝床に割り当てられた部屋へ戻ろうとするが、入ってきた小坊主が住職に耳打ちすると、住職は改まって直家を呼び止めた。
「これから、どちらに向かわれるつもりですか?」
そう問いかけてから、はっと気が付いたように改めて言い直した。
「詮索するつもりはございません。しかし、ここから南に下る街道に、松田家の兵が陣取って、通る者を改めているそうなのです。数百は居たとの事で、もし南に行かれるならば、お気を付けください」
「そうか、礼を言う」
歓迎を受けながらも、直ぐに寝屋にあてがわれた東屋に引っ込んだのも、融が食事をしながらうとうとし始めていたため、失礼に当たる態度ともとられなかった。
もっとも状況が状況だけに、どれだけ警戒されても非礼だと受け取る者もいないだろう。
「さっきの住職の話、確かめられるか?」
「はっ、斥候に出た者がもうじき戻るかと」
「ここでも、待ち伏せているだけなら良いが……」
誰かが報告して、いつの間にか囲まれていることもあり得る。相手がどのような手を打ってくるか考えながらも、部屋の隅の柱に背中を預ける。足を延ばして眠るのは、諦めねばならないようだ。




