3(シズク)
ロシアの豆知識
:ロシア語における敬称は、「господин(男性)」「госпожа(女性)」をつける形式と、名前・父称(お父さんの名前、いわゆるミドルネーム)で呼ぶ形式の2種類。
:ただし前者は、日本語でいう「~殿」「~嬢」の様に堅っ苦しい表現で、営業などの取引先に話しかける場合は、後者を使うのが一般なのだそう。
仮想西暦2060年3月某日 正午過ぎ
ラグーナポリス 地下 『連合』近畿支部
中華料理店の客室が、秘密の地下施設へのエレベーターだった。
そんなライトノベルじみた状況に呆然としていた雫は、更に非現実じみた光景で我に返った。気が付くと、西洋の舞踏会場のようなホールに辿り着いていたのである。
半径十数メートル、高さ2階層分の円柱型の空間で、灯りは天井の中心から吊り下がるシャンデリア一つ。床は太陽を描いた寄木張り。壁は光沢のある黒檀製で、前後左右の4方向に、それぞれ扉がある。
そんな部屋の中央に佇み、一行を迎える者がいた。
黒地に金糸で曼殊沙華をあしらった着物を纏い、指にキセルをぶら下げた、隻眼の中年男だった。
「おぅ、よろず屋ども。相も変わらず面白そうな事に首突っ込んでやがるな」
「好き好んで関わっている訳ではございません、カズメ様。お暇なのでしたら、いつでも替わって差し上げますわ」
ララが八つ当たり気味に言葉を返すと、『連合』近畿支部長、一目連之助は、キセルをくるりと弄びつつ破顔した。
「いやいや、丁重にお断りするよ。今回の事件の後始末で、こっちも大忙しなんでね。『どっかのバカ2人』が、公園をもっと大事に使ってくれてれば、少しは楽だったんだがねぇ。砕けたレンガの修繕費、いくらだったかねぇ」
「・・・嫌味を聞くために登庁したんじゃありません。さっさと本題に入りましょう、支部長!」
バカ2人の片割れである青年は、そう言って嫌味100%の視線を避け、後ろに控えていた雫を前へ押し出した。
突然、文字通りの矢面に立たされた雫は、緊張気味に一目へと一礼する。
「あの、白鳥雫です。お、お忙しい中、申し訳けありません!えっと・・・よろしくお願いします」
「お、おう。俺ぁ一目連之助。『連合』近畿支部の長を任されてるモンだ」
雫の初々しい態度に、意外そうな表情を浮かべる一目。が、それも一瞬の事。癖なのか、再びキセルをくるりと掌の上で回すと、気さくに雫へ語り掛ける。
「はっ!死人が生き返ったと聞いて、もっとゾンビっぽいかと思っていたが。・・・ふーん」
何かを見極めようと、隻眼を細めこちらを見据える一目。
「(・・・他の被害者には起こって無ぇ、てことはこの嬢ちゃんの血筋に『触った』のか?)」
およそ30秒。答えは見つけられなかったようだが、一目は見分をやめる。
そして不安そうに待ち続けた雫と、その周りで静かに見守っていた一行に、これからの段取りを説明し始めた。
「とりあえず、嬢ちゃんが魔族に成っちまったのは確定だ。だからこれから、戸籍書き換えの手続きを始める。・・・ガスパジャー、出番だぜ」
『もうちょっと優雅な声掛けはできないの?それじゃあ、ヤクザが子分を呼びつけるみたいじゃない』
ねっとりとした女性の声がホール中に響いた。
そして奥の扉から、ひんやりとした空気を伴って、1人の女性が現れる。
「(・・・白銀の貴婦人)」
白銀のドレスに身を包み、若干黒味のある白い髪に雪のような肌、唯一瞳と唇に真紅が見られるその女性の事を、雫はそう評した。
そんな風に見とれていると、まっすぐにこちらへ歩み寄ってきた彼女は、前触れなく、雫に軽く抱き着いた。
「プリヴィエィト、ズドラーストヴィチェ!」
「ロ、ロシア語・・・」
「おいガスパジャー、悪いが日本式の挨拶にしてくれないか?嬢ちゃんが凍っちまってるぞ」
身動きできずにいる雫に代わって、一目が釘を刺した。
するとロシアン美女は、ありゃりゃ、と失敗した様子で彼女を開放し、今度は流暢な日本語で話す。
「初めまして、白鳥雫さん。私はリェーベチ・ぺトロヴナ・チャイコフスカヤ。これからあなたの戸籍更新手続きと、新しい生活についてのレクチャーを担当するわ」
「えっと・・・よろしくお願いします。リェーベチ・ぺトロヴナ」
「あら、ロシアの習わしを知ってるのね。嬉しいわぁ、未だに堅っ苦しく『ガスパジャー』なんて呼ぶ誰かさんとは大違い」
「・・・それじゃあ、嬢ちゃんの事はガスパジャーにまかせる。よろず屋は俺と一緒に来い。後始末の事で話がある」
そうロシアン美女の批判を煙に巻いた『誰かさん』は、一足先に右手の扉へ向かう。
リェーベチはその後ろ姿へアカンベーをした後、雫を連れ立って反対側の扉へ歩を進める。
ミカとララはそのまま一目の後に続くが、卓也はふと足を止め、ここまで送り届けた少女の背中へ声を投げかけた。
「では雫さん、色々面倒くさい書類とか、眠気を誘うビデオとかが待ってるけど、頑張って!魔族に変わっても、この街は君を受け入れてくれるから」
「・・・はい。卓也さん、皆さん、ありがとうございます」
不意に零れかけた涙を隠すように、雫は去りゆく3人に向かって、深々と頭を下げた。