82日目 季節語り
今回は会話文ゼロです。
季節を表す言葉がある。
和歌で言う所の季語であり、津々浦々の四季を暗喩するキーワードがあるのだ。
ど真ん中ストレートな表現で言えば、桜。
春と言えば桜であり、桜が咲けば僕等は春の中を過ごしていると言えるわけだ。
それだけメジャーであると、逆に桜を春の季語として使うのは恥ずかしくもある。
その散り際もあり、ある種忌避されている桜という名の春の縁語。
では他に春を表す物と言えば何だろうか?
紅白の梅、花曇の空。ウグイス。
僕は常日頃からウグイスが好きだった。
まず名前が好きだ。ウから始まるカタカナ言葉は素敵な物が多い。
ウェディング、ウエスタン、ウイング。
語るのも恐れ多い、あの世界的なネズミの飼い主もウから始まる名前だ。
しかし何も名前の響きだけが気に入っているわけでは無い。
僕がそんな浅薄な輩だとは思われたくは無いので、その事を特に強調しておく。
ウグイスの良い所は、音で季節を知らせる、と言うことだ。
音という物は時に目で眺める物よりも深い何かを伝えてくる。
大気に揺れる風鈴の、あのチリンという音。虫の鳴き声。海鳴りの響き。
そういう音を聴くと、僕はいつも胸に迫る思いに襲われる。
かつてどこかで聴いた懐かしい音。
思い出の中の音が、今も着実に流れていく刻を、いやおうも無く僕に突きつけるのだ。
暮れ行く空は、決して元の明るさを取り戻さない。
空は沈んで行く。どうしようも無く。そしていずれ始まる朝は、昨日に帰れないという事を冷徹に僕へと告げるのだ。
時は流れ、僕は戻れない。
押し流されるように生きて行く。
何の話だったか。そう、ウグイスだ。
夏の季語にこだわっている場合では無い。
ウグイスの鳴き声は軽やかで、清々しい。
それは風鈴や虫の鳴き声とは違い、人を明るくするように僕には思えた。
春の音は鮮やかだ。
色づく花のように明るくそして爽やかに響く。
芽吹く命の音。気高き生命の息吹が春の象徴なのだ。
ウグイスは鳴く。軽やかに、鮮やかに。
それに、どこか愛嬌がある。
甲高いだけが取り得のシジュウカラや、朝を知らせるしか使い道の無いニワトリの鳴き声とは一線を画す。
そんなウグイスが、僕は好きだった。
春を告げる鳥、ウグイス。
そんなウグイスの鳴き声を、僕は初夏に聴いた記憶があった。
つまりは五月か六月辺りだったと思う。
子供だった僕は、部屋の中でぼーと佇みながらウグイスの声を聴いていた。
厳密に考えてみた。
ウグイスは、初夏の鳥でもあるのでは無いか?
その事は大いに問題だった。何故なら、季節感が狂うからである。
桜が咲き、散り行く時を春とするならば。
白雪が吹雪き、それが融けるまでを冬とするならば。
ウグイスが鳴く間は、春または夏、となってしまう。
それは大いに問題だった。
冬の軒下に、吊るされたままの風鈴のように季節外れな存在だった。
ビニール・ハウスが発達した今、僕等はいつでも、大抵の果物を店先で買える。
しかしそれが逆に、ありがたみを無くしてしまうのと同じ事だ。
ウグイスが夏にも鳴くのであれば。
あの鳴き声は、春だけのものでは無いのだ。
雪解けの大地から芽生える新緑のような、あの声は。
梅も桜も散った初夏にも響くというのなら。
そのありがたみは半減、いやさらに減るような気がした。
嗚呼、ウグイスよ。どうして春にだけ鳴かなかったのか?
画竜点睛を欠くというが、むしろ欠けてこそ映える物があるのだ。
オールシーズンではダメなのだ。春に咲き、春に散る。そんな桜が愛されるように、人は限りあるものに愛を注ぐ。
話は変わるが、僕は冬の海が好きだった。
季節外れもはなはだしいが、だからこそ好きなのだとも言える。
つまりはそれが限定されているからだ。
誰も居ない海というのは中々貴重で、それは誰からも必要とされない海であり、僕くらいは必要としてもいいんじゃないかと思えた。
そう言えば僕は、妙に人が居ない、流行らない店が好きだったりする。
錆びた鉄と古びたコンクリート。褪せたパラソル屋根に、塗装が剥がれた鉄柱。
そういった諸所の場所に目を奪われる。
銭湯もそうなのかもしれない。僕は、僕くらいは銭湯を好きでいてもいいんじゃないかと心のどこかで思っているのかもしれない。
銭湯の良い所は色々ある。
まずは安っぽい作りのロッカーだ。
偽造しようと思えば幾らでも出来そうな鍵を使って、ちっぽけな正方形の箱の中に服やら携帯やらをしまい込む。
だが盗まれる事を心配したことは一度も無かった。
こんな所に来るような人は、今さら他人の物を拝借しようとは思わないのだ。
銭湯のシャワーは妙に機械チックで、しかも単純だ。
蛇口とシャワーがセットになっているそれは、ボタンを押すと一定量のお湯が流れるのだが、その構造がまた良い。
ボタンを押すという作業は何かの機械を操作しているような気分になるが、操作するのはそのボタン一つだ。何も悩む事など無い。
核ミサイルの発射ボタンをベタベタと触るチンパンジーのように、僕等はシャワーのボタンを何度も押すのだ。気が済むまで。
そして広いだけが取り得の湯船に浸かると、壁一面に広がる富士山の絵を眺める事になる。
こういう銭湯の絵というのは、その昔に旅行に行けなかった庶民の心を慰めるために描かれたのだと言う。
銭湯に行って小旅行という、何とも大正ロマンな世界があったのだ。
あるいは僕は、現代まで残るそのロマンの残り香に惹かれているのかもしれない。
手慣れたタッチで描かれた、対して芸術性の無さそうな富士山の絵を眺めながら。
肩までどっぷりお湯に浸かるわけだが、ここで注意しないといけないマナーがある。
タオルは湯船に浸けてはいけないのだ。これはお湯を綺麗に保つための暗黙のルールであり、この世にあるありとあらゆる規則の中でも最も洗練された物の一つだ。
そんな規則を、僕は破ることを常習としている。
何故ならやはり股間を他人に晒すのは恥ずかしくもあり、だったら銭湯に来るなという話だが、しかし銭湯に浸かりたいという思いも捨て難いものなのだ。
昭和を生き抜いたジイさん達とは違い、現代を生きる僕等は恥じらいを忘れない。
だから股間を隠すためにタオルを湯船に浸ける事も、本よりもネットで情報を調べてしまう事と同じくらい仕方が無い事なのである。
マナー違反ではある。しかし、わざわざ注意してくるような人はいない。
それは暗黙のルールであり、守る事もまた暗黙の内にある。
表立って言うような事では無いのだ。中には言ってくる人もいるが、なあにその時はやり合えばいいだけの話である。そんなに僕の股間が見たいのか、この変態! ってね。
さて何の話をしていたんだっけ? 最初は季節の話をしていたような気がする。
銭湯と言う物に、限定された季節は無い。
例えば夏にしか入れない銭湯や、冬にしか営業しない銭湯という物は、普通は無い。
しかしやはり、銭湯の四季という物も存在するのだ。
例えば、濡れた髪で見上げる夏の夜空。
吐く息が白く霞む、冬の日の夜道。
銭湯を通して、僕等は僕ら自身の季節を描いていく。
凍てつくアスファルトを踏みつけるブーツの靴底が、見上げる夜空と大気に乾いていく髪が、煙る雨の中に仄かに匂うシャンプーの香りが。
幾つもの季節を語り、そして通り過ぎて行く。時は戻らず、絶えず過ぎ去っていくのだ。
季節は巡り、巡るからこそ帰れず、帰れないからこそ無常である。
辛い冬を乗り越え、新しい命が、凍った土の中から芽生える春は。
古い命が消え去り、もう二度と帰って来ないことをも意味する。
新生の喜びと、朽ち行く命への鎮魂と。時は流れていく。
悲喜こもごもと言えばそれまでだが、では春とはどんな季節だろうか?
やはり僕はウグイスの声を思い出す。
色づく花のように明るく、そして爽やかに鳴く鳥。
ただ一つ残念なのは、ウグイスが初夏にも鳴く事だ。
しかしそんな間抜けさも、彼らなりの愛嬌なのかもしれない。
季節っぱずれな声を上げ。嘘つき鳥は、夏の午後にも春を告げまわる。
だがいいさ。僕は嘘つきってのがキライじゃないからね。
誰もが必要としないなら、僕ぐらい、嘘つきを必要としたっていいだろう?
返事は訊かないまま。僕は一人、自分の言葉に肯いていた。
ウグイスの鳴き声を待ちわびながら。
村上春樹を読みました。