80日目 戦争とウドン
眠れない夜というのはあるものだ。
将来への不安。漠然とした悩み。
あるいは寝る前に飲みすぎたコーヒーや栄養ドリンク。
様々な理由があったり無かったりするが、目が冴える時はどうしようもなかったりする。
どんなに目を瞑っても眠れない僕は、諦めてベッドを後にした。
真夜中の寮の廊下を歩く。窓から差し込む月の光が、白々と壁や床を照らしていた。
壁に据え付けられた常夜灯。それに導かれるように僕は歩く。
寮の食堂の前まで来た僕は、何となく中を覗いた。
そこには幽鬼のように佇む人影があった。
その正体は、深夜に食堂で夜食を取る妖怪である。
またの名を大阪さんとも言う。
「大阪さん」
「ん? なんや?」
後ろから声をかけると、大阪さんはカップウドンを啜りながら振り返る。
前回、同じように声をかけた時は盛大に驚いたというのに、今回は何故か余裕があるな……?
あるいは耐性でも出来たのだろうか?
よくは分からないが気にしない事にし、僕は大阪さんと向かい合う位置にあるイスに座った。
「眠れないんで、暇つぶしに付き合ってもらないですか?」
「なんや? 別にええで」
箸を置きながら快諾する大阪さん。
僕は兼ねてより不思議でならない疑問をぶつけてみる事にした。
「銭湯って何で流行らないんですかね?」
「そりゃ、今はどの家にも風呂が付いてるからやな」
あっさりと解決してしまった。
そうか、そうだったのか……。
風呂が付いてるから、銭湯には行かないのか。
利便性の前に情緒性が消えていく現代の日本。そこはかとない寂しさがあった。
しかしこうもあっさりと結論が出てしまうと、暇つぶしにならない。
どうしようか? 僕はしばし考えた後、ウドンを啜る大阪さんへと言葉を投げかけた。
「大阪さん」
「ん? なんや?」
「戦争って、なんで終わらないんですかね?」
「急にヘビーな話題やな!」
驚く大阪さんに、僕は「一文字違いじゃないですか」と呟く。
そんな問題やあらへんやろ、と言ってくる大阪さん。
じゃあどんな問題なんですか? と訊くと、大阪さんは首を傾げた。
しばし黙考した後、何かを探るように言葉を紡いだ。
「裸の付き合いと、拳のド突き合いの違いやな……!」
そう自慢気に言う大阪さんは、誰よりもバカに見えた。
しかしそんな感情をおくびにも出さず、僕は会話を続けた。
「人間って、戦争をしたがる生き物なんですかね?」
「なんや、坊主は悲観的やな」
大阪さんは僕を箸で指しながら言った。
返す刀で……いや箸でウドンを一口食べる。
もしゃもしゃと咀嚼した後、ウドンを飲み込んだ後に続きの言葉を発した。
「そうやな……人間は戦争するのが愉しいんやろうな」
「ですよねー」
「でもな、坊主。人間は戦争が嫌いや」
「……どっちなんですか?」
矛盾する事を堂々と発言する大阪さん。
疑問の声を上げる僕に、快活に笑いながら話を続けた。
「はっは。人間は元々、矛盾しとるんや。そこに論理を求めるからややこしゅうなる」
「つまり……どういう事ですか?」
問い返す僕に。大阪さんはニヤリと表情を歪めながら言った。
「ええか? 俺らは争うのが好きや。何故なら、幸せとは他人との比較から生まれるからや」
「ヘビーな意見ですね」
「やれ争いが嫌いや言うけど、そういう奴ほど他人の悪口を言うもんや。他人を否定するのも立派な争いの一つやで? そうやろ?」
「そうですかね?」
コメントを差し控える僕。
大阪さんは、それを肯定と取ったのだろうか。
言葉に熱を帯びながら話を続けた。
「俺らもそうや。剣に憧れたり、強さに憧れたり。他人より優れていたいと思うもんや」
そこまで一気に言葉を捲し立てると、大阪さんは再びウドンを一口食べた。
ずるずると麺を啜る。と、大阪さんは突然咳き込んだ。
「ゲフォ!!」
「だ、大丈夫ですか?」
「ゴホッ……七味トウガラシを入れ過ぎてしもうた」
ゲホゲホ、と咳き込みながら、息を整える大阪さん。
しばらくした後、口調を改めながら話の続きを開始した。
「問題はや、俺らの頭が悪い事や」
鼻からウドンを垂らしながら喋る大阪さんは、確かに頭が悪そうに見えた。
「過程と結果を同時に考えられへんのや。いや、出来ると思うやろ? せやけどアカンのや。やってみて初めて、己の行いを顧みるんや」
「ん~。僕もどっちかと言うと、やってみてから考えようっていう方のスタンスですね」
「せやな。やってみいひん事には、実際には理解できん事の方が多いしな」
明かりの無い食堂の中で。
ほの白い月光に照らされた大阪さんは、真剣な表情を浮かべて言った。
「俺らはな、愉しくて戦争を始めるんや。そんでやってしまった後に後悔する。でもな、経験が無いとその後悔は骨身に沁みんのや」
後悔先に立たずって言うやろ?
なんて言いながら、大阪さんは手に持つ箸で僕を指した。
「それにな、きっと俺らは戦争を愉しむと同時に後悔してるんや。力を振り回す事は楽しいけど、その結果を見て悲しむんや。どっちも正しい感情で、矛盾してるのは人の心の在り方やね」
「矛盾を無くす事って出来ないんですかねぇ?」
「俺らは天使やないからな。人は人の身で己を救うしか無いんや」
どこか達観したように、大阪さんはニヒルな笑みを浮かべた。
その鼻から依然としてウドンの麺が垂れている事を、指摘するべきかしないべきか。
僕は真剣な表情でその事を考えていた。
「大阪さん」
「ん? 何や?」
「……いや、何でも無いです」
「はっは、何や? 急に遠慮しくさって。恋の悩みか? 恋の悩みやろ?」
どうしても言えない一言を抱えたまま。
恋の悩みほどには美しくは無い悩みに、僕は頭を悩ませたのだった。