56日目 ジーナとポルテの恋物語
「よっと」
「ん? 何だそれ?」
長ソバくんが僕の手元を見つめながら疑問の声を上げる。
僕が取り出したのは、1冊の薄い本だ。
粗悪な藁半紙が、これまた粗雑な表紙で綴じられている。
表紙には絵が描かれているが、いかにも素人臭い絵だった。
それもそのはず、これは学園の生徒が作った同人誌である。
特に文芸部という物は存在しないこの学園だが、好き者が集まってこうした手製の文芸集を発行しているというわけだ。
それらの文芸同人誌は図書室に燦然と積まれ、誰もが自由に持ち帰る事ができた。
もっとも、わざわざ手に取るような物好きは珍しかったが。
僕が取り出したのはそれらの1つであり、つまり僕は物好きに分類される人間であった。
「ああ、図書館に平積みされてる本か。何か面白い話でも載ってんの?」
「いや全然」
長ソバくんの言葉に、僕はすげなく答えた。
「じゃあ何で読んでんだ?」
呆れた風に僕を見る長ソバくん。
そんな視線を意にも留めず同人誌を開く僕。
ビッシリと縦にタイプされた文章が目に入る。
ワープロソフトで書かれた楷書体の列を3行目まで読んだ時だった。
不意に、紙面の上に影が落ちる。
視線を上げて影の正体を探る僕。そこに居たのは冷蔵子さんだった。
イスに座る僕を睥睨するように真横に立っている。
見るだけで気温が3度は下がりそうな碧い目。
光に透けて希薄に見える金髪が、だらりと垂れ下がっている。
その視線の先は、僕の読む本に向けられていた。
「何か用?」
こんな時にかけるような言葉は少ない。そんな数少ないセリフの1つを言う僕を無視して、冷蔵子さんは僕の持つ同人誌に視線を向け続けていた。
だんだん居心地悪くなって来た頃。彼女はつっけんどんに聞いて来た。
「あなた、何を読んでいるのかしら?」
「同人誌だよ。ほら、図書室に積んであるやつ」
簡潔に答える僕。
「ああ、あれね。さして読む物があったとも思えないけれど」
興味が失せたかのように、彼女の瞳はさらに冷たさを増した。
そのまま冷蔵子さんと会話を続けようとした僕は、ふとさっきから一言も発しない長ソバくんの様子が気になった。
チラリと横に視線を向ける。
長ソバくんは、口をあんぐりと開けたまま硬直していた。
「……何やってんの?」
馬鹿みたいに固まる長ソバくんに向かって僕は言った。
長ソバくんは、過呼吸に苦しむかのように喉の奥でヒューヒュー音を鳴らすと、やおら勢い付いた声を上げた。
「何って、冷様と話すの、俺初めてだぜ!?」
興奮したように語る長ソバくんだったが、一体いつ長ソバくんが冷蔵子さんと会話したんだ?
疑問に思いながら長ソバくんを見つめていた僕だったが、突然の衝撃が足元に走り、思索を中断する。
違和感の元を探るべく僕は自分の右足を見た。
スカートから伸びる誰かの足が、僕の右足を容赦なく踏んでいる。その足を視線で辿って行くとやはりと言うか冷蔵子さんの尊顔が見えた。
何やら不満気な顔で僕を睨み付けている。
どうやら、彼女を無視して長ソバくんと話していたのが気に入らないみたいだ。
「その本、さして読む物があったとも思えないけど、何か面白い話でもあるのかしら?」
繰り返すように彼女は言った。
相変わらず僕の足を踏んだままで。
いやあ、こういう所が冷蔵子さんの凄い所だよなあ。人の足を踏みながら、何事も無いかのように会話を続けるんだもんなぁ。
僕は踏ん付けられている右足の運命を、かつてのイエス・キリストのように受け入れながら返事を返した。
「無いよ。全然無い。逆に面白いって事も無い」
つまる所、味気無いというのがこの同人誌の総括である。
奇妙に尖った部分も無く、さして面白い話も無く、学べるような話も無い。
砂を噛む様な、あるいは極限まで噛んだガムのような無味無臭。
そんな話が羅列されているのがこの同人誌だ。
しかしそれも仕方無いのである。
校内で製作されるこの同人誌は、あまりにブラックなユーモアや公序良俗に反する内容は厳しく取り締まられている。
結果として、学生が書いた弾けきれない文章が申し訳なさそうに踊る事になるのだ。
「じゃあ何で読んでいるのかしら?」
長ソバくんと同じように呆れた顔で僕を見る冷蔵子さん。
未だに僕の足を踏み続けているが、一体いつになったら止めてくれるのだろうか?
そんな淡い期待を抱きながら僕は答える。
「どうやったら話が面白くなるのか考えてるんだよ。コメディ? ああ、パロディだ。そう言った感じで」
今度はどうやら納得したらしい。
冷蔵子さんは「ふふん」と笑うと、得意気な顔になって言った。
「パロディなら和歌でもあるわね。本歌取りっていって、」
そこで「あら?」と表情を変えると、冷蔵子さんは頬に手を当てながら言った。
「でもあれは、有名な作品だけだわ。マイナーな同人誌の場合も当てはまるのかしら?」
「いやそもそも、それは和歌の話だし」
冷静にツッコム僕。
そんな僕を「むむっ」っと睨むと、彼女はふっと笑顔を見せた。
「では、あなたは本歌取りの上を行く、というのね?」
誰もそんな事は言っていない。
しかし冷蔵子さんの考えを訂正するのが面倒な僕は、意味ありげに笑ってみせた。
その行為に特に意味は無い。
強いて理由を上げれば、僕の足を踏むのを止めてくれないかなぁ? という期待は込めていたが。
そんな僕の思いを全く気付かない冷蔵子さんは、僕の手の中の同人誌をしげしげと眺めた。
「ではそうね……その、猫のイラストが入った話はどんなストーリーなのかしら?」
「これね。ちょっとふてぶてしい野良猫のポルテと、お金持ちの家の飼い猫のジーナの恋物語。何かの複線も身分差の葛藤もドラマティックなクライマックスも無く、最後はジーナがポルテとくっつく話だよ」
「……一体どんな話よ」
そう呟くなり、彼女は僕の手から同人誌を引っ手繰る。
つらつらと作品を読み終わると、どっと疲れた表情をしながら言った。
「本当に何にも無い話ね……。猫を選んだ理由は何なのかしら?」
「逆に考えると、それが唯一の物語性だよね」
全くだわ……と呟く彼女。
次の瞬間、キッと僕を見据えたかと思うと、挑むかのような不敵な笑みを浮かべる。
「さあ、この話をどう面白くするのかしら?」
面白く出来なかったら罰ゲーム、とでも言い出しそうな調子ではあった。
ふふっ、面白いじゃないか。勝てる気が全くしない。
こんな話、面白く出来るわけが無いじゃないか!
くっ、確かに僕はこういうストーリーを改変して面白くしてやろうと常々模索していた。
しかしそう簡単に行くはずが無い。
言わば自分自身へのチャレンジとして挑んでいた思考実験。
それがまさか、こうまで僕を苦しめる事になるとは。
意味ありげに自信満々な笑顔を浮かべつつ、僕は内心でかなり焦っていた。
どう頑張っても面白くする自信が無い。クソッ、何で冷蔵子さんはこんなに楽しそうなんだ!?
苦渋に滲む思いを抱きつつ、僕は高速で思考を巡らせた。
無理。絶対無理。こんな話を改変するくらいなら、最初から物語を作った方が圧倒的に速い。
早くも挫折と絶望に足を半歩入れつつ、僕は不敵に笑い続けた。
後はもう奇跡に頼るしか無い。頭で考えず、口を突いて出る言葉をそのまま言った。
「例えばそう……コレは暗喩なんだ」
「暗喩?」
縛り上げた敵将の最期の言葉を聞いているかのような顔で、冷蔵子さんは聞き返した。
それに対し、僕は頭で何も考えないまま言った。
「猫は人間性の喪失を意味する。つまり、人間らしさこそが愛の障害だと訴えるストーリーなんだ。だからこそ、猫であるポルテとジーナは何の躊躇いも無く恋に落ちた。……人間なら、きっと素直に恋に落ちる事は出来ない! この物語はその人間の悲哀を暗喩しているんだよ!」
自分でも何を言っているか分からない。
しかしどんな時でも、自信があるように見せれば何とかなるはずだ。
僕は自信満々に迷子になるジイちゃんの姿を思い浮かべながら、策謀が見事に決まった軍師のように笑い続けた。
僕の雷鳴のようなセリフを聞いた冷蔵子さんは、何やら考えているような表情だ。
苦し紛れのデタラメだったが、何やら彼女の心に響くような言葉があったらしい。
押せ。どんな時でも押していけば何とかなる。そんな脳筋思考を展開する僕は、「反論はあるかい!?」と自信満々に言う。
ややあって、冷蔵子さんは僕と真っ向から視線を合わせた。
氷点下を思わせるその青い瞳に、不可思議な光が浮かぶ。
「なるほど……。中々面白い解釈だと思うわ」
そう言うと、彼女は腰に手を当てる。
「75点……及第点と言ったところね」
何やら落第しなかったようだが、謎の辛口評価が下されたようだ。
冷蔵子さんの満足行く答えが返せた事にほっとする僕。
ところで、一体いつになったら冷蔵子さんは足をどけてくれるんだろう?
不敵な笑顔を浮かべたまま、僕は一筋の汗を流した。