100日目 お神酒はセーフ
夜の静けさは海底に似ていた。
僕らは大気の中を泳ぐ魚のように、青に沈んだ世界を彷徨う。
「なんや、坊主か」
真夜中の食堂には、大阪さんが居る。
その姿は、まるで岩棚に隠れる深海の住人のようだった。
「ちょっといいですか?」
静寂に満ちた男子寮の食堂。
占有するように堂々とテーブルに着く大阪さんに、僕は尋ねた。
「女の悩みやて?」
明かりの無い食堂のテーブルの上には、無論何も無い。
ただ大阪さんの持ちこんだビールの缶だけが寂しげに佇んでいた。
(何でビール飲んでんだよ、この人)
心に浮かぶある種の不信感を隠しながら、僕は大阪さんに視線を向ける。
「ちょっと、揉めてまして」
「なんや、坊主もやるようになったやないか」
何を思ったのだろうか?
大阪さんは僕を褒めると、上機嫌にビールの缶に口を付ける。
ぐびり。
真夜中の静謐を破るように、大阪さんの喉が鳴る。
口を潤すようにした後、大阪さんは今気付いたと言った風に、言った。
「ああ、これはノンアルコールやで。子供でも飲めるやつや」
「さいですか」
僕は大阪さんを見つめながら、淡々と肯き返す。
そんな僕に、大阪さんは面白がるような瞳を向けた。
「あれやろ? 前に公園に連れて来てた別嬪さん。なんや、アンミツ姫さんやったっけ?」
アンミツ姫、とは冷蔵子さんの事だった。
口元にアンミツのクリームを残したままの彼女の横顔を思い浮かべながら、言う。
「そうです。彼女、ちょっと厄介な事に巻き込まれまして」
「厄介?」
「女同士の争いに巻き込まれてるみたいなんです」
僕の話を聞き終わった大阪さんは、黙って俯いた。
カチ、コチ、と柱時計の秒針の音が、無音の食堂に響く。
「坊主、責任は取らなアカンで」
大阪さんはゆっくりと顔を上げると、そう呟いた。
責任。そんな言葉を口の中で反芻しながら、僕は言う。
「責任、ですか」
「男としてどっちを選ぶか、はっきりさせなアカン」
外天をこの手で葬り、冷蔵子さんに被害が及ばないようにするか。
それとも、状況を見守ってある種の傍観を決め込むか。僕は悩んでいた。
(外天。彼女は危険だ。危険な臭いがする)
黙って見ていれば取り返しがつかなくなるような、そんな予感を感じさせる女だった。
血で汚れた己の手を見下ろす。
その手に残る先輩の唇の温度を思い出しながら、僕はゆっくりと口を開いた。。
「罪は――、」
僕の目を見据える大阪さんに、内心を隠しつつ。
これから先に下さなければならない決断に苦悩しながら、僕は言った。
「罪は、許されるんでしょうか?」
「主は全ての人の原罪を背負う、か。俺はこの言葉が大ッ嫌いや」
大阪さんは手にした缶ビールを煽りながら言った。
「俺らが罪を犯したんやとしたら、それは俺ら自身が背負わなアカン。たとえ辛くても、それが人間らしい生き方や。俺はそう思うんや」
酔漢。そんな言葉が思い浮かんだ。大阪さんは滑らかに口を動かし続ける。
酒に酔っているのか、自分に酔っているのか。あるいはその両方かもしれない。
「罪が許されるかどうか、俺は知らん。救いがあるかどうかも分からへん。分かるまで罪を背負い続けたらええ。たとえそれが生まれ持ったもんやとしても、な」
「もしも――耐え切れなくなった時は、どうすれば良いんですかね?」
「さあな。俺も分からへん」
「……結構いい加減なんですね」
ジト目で見返す僕。
しかし大阪さんは気にする事も無く応えた。
「そうや。あんまり気張らん方がええ。俺らは天使や無いんやし、そうそう正しい答えが出せるわけや無い。何でも上手く行くはずが無いし、いつでも幸せを掴めるわけでも無い。努力が報われへん時もあるし、誰にも理解されん時もある。だから気張らん方がええんや。」
暗闇の静謐さは、幽玄なる深淵の色に似ていた。
仄かな夜陰の中を泳ぐ魚のように、青い世界の底で僕らは彷徨う。
「どんなに真っ直ぐ生きようとしても、自分の行いに悩みも持つし、どうしようも無い事もやってまう。今の坊主みたいにな。せやから、そんなに追い詰められんでもええんやで?」
缶を持ち上げ、僕に向かって掲げるようにしながら。
イカサマ師扱いされる聖者のごとく。
大阪さんは、僕の罪を許すように笑った。
ありがたみの無い聖杯を掲げる大阪さんに。
身を翻すようにして、僕は静かに微笑む。
それは懺悔かもしれなかったし、そうじゃ無かったかもしれない。
だから僕は、僕自身の罪を許されようとは思わなかった。
その代わりのようにして言う。
「大阪さんほどじゃないですよ」
「せやなぁ……ってちゃうがな! いつ俺が、どうしようも無い事をやったっちゅーねん!」
「割と頻繁にやってるじゃないですか」
「なんやと!? 具体的に言ってみい!」
怒り出す大阪さんに笑い返しながら。
鋭い鷹のような視線で、僕は大阪さんの持つ缶を凝視した。
「具体的にですか? 例えば大阪さんが飲んでるビールですけど、それ多分アルコール入ってますよ」
「はっは。何を言い出すんや……あっ。」
己の手に持つ缶をマジマジと確認して固まる大阪さん。
そう。彼が手にしているのは正真正銘のビールだった。ノンでは無い奴である。
「な、なんでや……!? なんですり替えられとるんや!? 妖怪の仕業かいな!?」
「最近の妖怪は地味な仕事をしますねー」
慌てふためく大阪さんに僕は無感動に相槌を打つ。
故意なのか偶然なのか。大阪さんは面白いくらいに動揺していた。
「ち、違う! これは手違いや! の……ノーカンやろ!? ギリセーフやろ!?」
酒税法に引っ掛かるくらいにアルコールが入った缶ビールを掲げながら。
大阪さんは身を翻すようにして、僕に向かって絶叫する。
それは懺悔かもしれなかったし、そうじゃ無かったかもしれない。
どちらにしろ僕は、大阪さんの罪を許そうとは思わなかった。
無慈悲に。翼の無い天使のように。ゆっくりと、冷酷に告げた。
「ギリアウトですよ。罪を背負って下さい」
「大体法律がおかしいんや! お酒は二十歳からっていうのは何が基準なんや! お神酒はセーフやんけ!」
神道に活路を見出そうとする大阪さん。
アルコールを摂取しつつ。
回遊するように、僕らは世界を彷徨う。
罪はどこに在るのか?
手の甲に残る先輩の温度。
そのおまじないに祈るように。
強く在れるように、願った。