・アドモとの対立
・アドモとの対立
怖い。恐い。こわい。いてはいけない存在を、目の当たりにしている様な、そんな悍ましさ。
恐怖が俺に告げている。逃げられないこと。逃げてはいけないこと。
これにパトリシアを渡してはいけないこと。
「おあああああああああああああああああ!!」
「サチウス!」
ミトラスが制止するよりも早く、俺はパトリシアの顔を覗き込もうとしていた怪物、アドモの顔を殴っていた。拳に痛みが走る。
「ぐ、クソ!」
見た目は陶器の様なのに、まるで粗いコンクリートを殴ったような感触だった。
「サチウス! 落ち着いて! 大丈夫、大丈夫だからお願い、僕の目を見て」
抱きしめられたことで、俺はミトラスの目を見た。徐々に恐怖が薄らいでいく。
アドモに対する、言い知れない様々な負の感情が、抑えられるようになっていく。正気が戻ってくるのが自分でも分かる。
「あ、ごめん。すいません。俺はいったい何を」
「いいから深呼吸して」
抱きしめられながら息を整える。今度はなんとか相手の顔を見られるようになる。殴ったものの、ダメージは毛ほどもないらしい。
「すいません。うちの職員がとんだ失礼を」
ミトラスの言葉を聞いているのか、それは分からなかったが、アドモはパトリシアを見て、その次に俺を見た。
「……洗脳が解けている……何故だ? それにお前……この世界の、者では、ないな……? まあいい……」
全身が毛がぞわぞわする。
コイツは敵だ。間違いなく。
この世界にも人間はいたし、犯罪者にも遭遇した。だがコイツは違う。悪意がどうとかじゃない。この世界で初めて会った。敵だ。
「この娘を……連れて行く……」
アドモが大きく、そして皺枯れた白い手を伸ばしてくる。パトリシアが小さく悲鳴を上げた。咄嗟に彼女を抱えて、階段を数段上る。
「あのすいませんアドモさん。その子はですね、今は翼を怪我して飛べないんですよ。ですから連れて行くのは無理があるのでは」
ミトラスが間に割って入ってくれた。アドモの手が止まる。一応聞いてはいたようだ。
「……怪我? 外傷は見られない……嘘か……?」
「いえ、上手く飛べなかったらしく、墜落して負傷していたのを治療しました。ですので今も飛ぶことはできません」
アドモは首を傾げると何か納得できたのか、小さく頷いた。
「……不適格者が……命拾いしたのか……いつ直る?」
「それはこちらが聞きたいですね。あなただって天使でしょう、ご存知ないので?」
アドモは『どうでもいいことだ』と告げた。コイツにとっては人間上がりの天使のことは、知らなくてもいいことらしい。
「だが……本来ならば……使えないはずの物が……使えるというなら……良い……直ったなら……引き取りに、来よう……」
「いや、この子はですね、親元に帰るかも知れないんですよね」
ミトラスがそう言うと、それまでずっとこちらを見ていたアドモが、初めてミトラスへと向き直る。
「この国では天使も魔物です。そして、この地に住んでいる者以外は畜生と同じ。それは天使も同じこと。畜生同士の営みに口を出すことはできません。けど、この地に住む、人間扱いされる魔物が野良を一匹引き取るといえば、そちらが優先されます」
それまでアドモから発せられていた、異常な空気は止んでいた。今では逆に見えているのが不思議なほどに『薄く』感じられた。
「分かるか? お前らは、ちょっと大きな犬猫と同じなんだよ」
「無駄な足掻きを……この娘の親も……所詮は主を仰ぐ……子羊……。結果は決まっている……この娘も……我らの手に、落ちる……」
今はっきりとミトラスがアドモに対し、敵対の意思を露わにした。だがミトラスの啖呵を、アドモは意にも介さない。完全に悪役の言い草だ。
「その為に……人間共に……なるべく我らへの法を……創らせなかった……」
「ならばその人間の法の力と、彼女と彼女の親御さんの同意でもって、あなたにはこの件から、お引き取り願おう」
しばらくの間、両者は無言のまま対峙していたが、やがてアドモのほうが先に動いた。屈み込むように彼を見下ろしていたが、背筋をゆっくりと伸ばす。
突然、アドモの頭の輪っかから髪の毛が伸び、当人の頭部を包み込んだ。
「良いだろう。元々、捨て置くはずの物だったのだ。余興に付き合おう。だが、忘れるな。その親とやらが我らに娘を捧げるか、貴様の言う法とやらで娘を親子という形態に戻せなければ、その時は容赦無く連れて行くぞ! 悪魔よ!」
それまでのぼそぼそとした話し方から、高圧的なものへとアドモの態度は豹変した。明確な敵意をミトラスだけでなく、俺たちにもぶつけてくる。
「さっちゃん。こわい……」
「大丈夫だ、きっと大丈夫だから」
根拠はない。俺はパトリシアの翼に包まれながら、彼女を抱いた。俺が守っているのか、守られているのか分からないが、離れてはいけないと思った。
「もしも私に直接手を出すことあれば、この地は明日を迎えられぬと思え」
「斬新な命乞いですね。言いたいことがあるならこの苦情届けに内容を記入の上、提出していくのが現世の決まりですよ」
ミトラスが懐から取り出した、一枚の書類と鉛筆を受け取ると、アドモはそれに『早く娘の傷を治せ』と書いて返した。
そしてそのまま役所から出ていくと、翼もないのに空に吸い込まれるように、浮いていってしまった。
アドモは去ったのだ、と分かった。
「行ったのか……?」
「ええ、ですがこれで引けなくなりましたね」
階段にへたり込んでいた俺たちに、ミトラスが声をかける。助かった。次いで二階から四天王たちが順次こちらへ向かって来る。
余裕が無くて気付かなかったけど、俺の悲鳴に皆駆け付けてくれていたんだ。そう思うと体中から、一気に力が抜けた。
「さっちゃん、大丈夫!?」
「ああ、ああ。うん、平気だ。ご飯にしよう。俺もうくたくたでさ、先に行ってて」
パトリシアを皆に預けてその場に残ると、俺はミトラスと二人きりになった。
ミトラスも隣に座って、しきりに俺の背中を擦ってくれる。
「死んだかと思った」
「ごめんね。まさかあなたがあんなに怯えるなんて、思わなかったから」
ミトラスが予想外だと困惑顔をしている。たぶん彼の中では、もっと恐ろしい魔物の記憶とかが、あるんだろう。
今まで人畜無害な魔物ばかりだったから、生態に実害以外持ち合わせてなさそうな手合いを、想像できなかったんだ。
「ほら、手を出して。血が出てる」
「ん? うわ本当だ。すごい擦り剝けてる」
アドモの顔を殴った俺の拳は、逆にずたずたになっていた。もしかしたらあの顔は見せかけなのかも知れない。
ミトラスが俺の手を取ると息を吹きかける。すると血塗れだった拳の出血が止まり、傷が塞がっていく。
「いや、こればっかりは俺が悪いよ。でもあの怪物にお前が、犬猫云々の啖呵を切ったのは格好良かった。すごく頼もしかったよ。ありがとね」
傷を治してもらいながら、俺は正直に感謝した。
本当にあのまま見つめられていたらどうなっていたことか。
「ふふ、サチコのゲームに出てくるキャラの台詞だったんですが、役に立ったようで何よりです」
ミトラスが得意顔で答えた。え? あ。
「あまり好きなキャラじゃなかったけど、サチコが格好良いって言ってくれるなら、もう少し覚えてみようかな」
疲労困憊した頭の余白に、ミトラスの言っている言葉が書かれていく。それを意味する記憶の頁が、即座に捲られていく。
――今やってるゲームのドS系男子の台詞だ。
「できればね、もうちょっと穏やかな台詞のほうが、ありがたいかな」
「あ、そう? そうだよね、やっぱりちょっとだけ、怖いもんね」
いやもうなんていうか、自分の絶体絶命のピンチに仲間に乙女ゲーの台詞を言われて、助けられたかと思うと、ある意味黒歴史は俺のほうだったよ。
ミトラスが尚も何か言っていたが、内心で羞恥に悶えることになった俺が、次に正気を取り戻したのは、皆で食堂の席に着いた、十数分後のことだった。
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