第五章 オリーブの旗
第五章 オリーブの旗
その光は異常だった。
その光は見たこともない紫色の尾を引き、聞いたこともない轟音とともに、猛スピードで海面に降下していった。着水地点は博多沖。多くの船舶が往来する玄界灘に、巨大な黒い物体が四つ、不気味に浮かんでいる。
北九州一帯が騒然となり、通信回線はパンクし、スマホも固定電話もマヒ状態に陥った。テレビは続々と通常番組を中止して臨時ニュースを組み始め、ジャーナリストやカメラマンたちは功名を求めて殺到した。
この宇宙人は、銀河系から七万五千光年離れたゴルモン星という惑星からやって来た。艦隊の提督は、母国のハーン・ライフビ皇帝からの親書をたずさえているという。
「属国になれ、さもなくば兵を用いる」
強圧的な外交姿勢に、世界中が震撼した。
すでに国連政府では大統領職が廃止されて二十年が過ぎている。各主権国家による自治が認められた上での連邦制となっていた。国連政府の長は「執権」と呼ばれ、各国の利害を調整するのが主な役割であり、執権自身には強力な権力はない。
「国連直属軍」も廃止されて久しい。軍隊は、それぞれの国が持っている。その上で、国連政府が必要に応じて国連軍を招集し、それに各国軍が参加するのである。
ニューヨークにブルーの国連旗がはためいている。オリーブの旗のもとに、地球中の国々から軍が集まってきた。オレたちの地球を守るために。それぞれの民族の誇りを胸に、それぞれの固有言語を誇りに、それぞれの地域文化を誇りに、そして地球という惑星の誇りを胸にして。
執権のもと、地球防衛軍が組織された。ゴルモン星ハーン・ライフビ皇帝との交渉が決裂するや、ヒューストンの空軍基地から、次々と大気圏外へと戦闘機が飛び去っていった。
テキサスの強風が、星条旗と、日章旗と、ユニオンジャックと、青い国連旗を大きくなびかせていた。
「宇宙人の侵略に耐えられる地球をつくるために」
その思いは人類共通のものになって久しい。西条隆も小久保通も、皆その熱い思いを胸に、命を張ってきたのである。
意見の食い違いもあり、深刻な対立もあった。多くの血が流れ人命を失った。しかし、明日の地球を良くするために、という思いは同じだった。ただ方法論が違っていたにすぎない。あのタイラー一族でさえ、初めから私利私欲だけで独裁政治を始めたわけではなかった。
多くの先人たちが命を賭けてつくった、この惑星の統一政府。国連地球統一政府とは、まさにこの日のために存在するのである。今この時に防御線を死守しなければ、いったい何のための国連地球統一政府か。
一機、また一機。ヒューストンからも種子島からも、戦闘機が大気圏外へと飛び立っていく。それを見守るかのように、青いオリーブの旗がはためいていた。
国連軍は奮戦した。七ヶ月後、ゴルモン星軍は地球を去った。
秋風が吹いている。武三は縁側で干し柿を食べながら夕陽をながめていた。すでに定年退職して悠々自適の生活をはじめて久しい。
暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったもので、昨日までの残暑が嘘のように、涼風が心地いい。その風の向こうには、赤とんぼが気持ち良さそうに飛んでいる。
「これからは、いい世の中が来るだろう」
武三にはそう確信出来る何かを感じていた。
それは、激動の時代を命がけで生き抜いてきた武三だからこそ、感じることが出来たのかもしれない。
(了)
あとがき
イラクのサダム・フセイン大統領が隣国クウェートに侵攻したことに端を発する湾岸戦争の勃発は、一九九一年のことであった。この時、アメリカ・イギリスを中心とする西欧諸国は、国連決議という「錦の御旗」を得て、国連の名のもとに戦争をした。
「国連軍」という言葉がある。しかしながら、国連という組織そのものは、一兵の歩兵も一両の戦車も一隻の軍艦も所有してはいない。湾岸戦争当時、「多国籍軍」という言葉が使われたが、その意味は「国連軍」というに近い。米軍であったり英軍であったりと、各国主権国家が所有する軍が、国連を旗印に掲げて集まった連合軍であった。
この図式を見て、幕末の歴史小説が好きな私は、「まるで戊辰戦争だ」と思った。二十世紀末の国連とアメリカの関係は、幕末における朝廷と幕府の関係に似ている。すなわち、軍事力を持たないが正統性を有する国連は京都の朝廷であり、経済力と軍事力で他国を従わせるアメリカは江戸の幕府である。多国籍軍は官軍であり、イラクは賊軍であり、国連決議は錦の御旗である。そしてペリーは宇宙人ということになる。
そんな思いが、私がこの小説書こうと思ったきっかけである。
私はプロの学者ではない。ただの市井の歴史好きに過ぎない。だからアカデミックな歴史学者のきちんとした学術論文とは別なところにいる。
ただ、素人ではあっても思うところがある。僭越ではあるが、しばし素人の歴史談義につきあっていただくことをご容赦いただきたい。
唐突だが、奈良時代と明治時代は似ている。奈良時代に先立つ飛鳥時代、白村江で負けた倭国は先進国の唐の脅威にさらされた。国を守るため、蘇我氏などの豪族が力を持つ社会から、天皇中心の強力な中央集権へ移行しようという動きがあった。幕末の日本となんと似ていることだろう。
素人の私が大雑把に考えるに、日本の歴史には、中央集権へ向かう時代と地方分権へ向かう時代がある。
飛鳥時代は中央集権をめざした時代であり、奈良時代になって完成する。
しかし完成した中央集権は地方の人々を幸福にはしなかった。中央政権への反発が、平安時代になって地方で武士を台頭させ、やがて鎌倉幕府成立への原動力となる。
武士とは「自分の土地は自分の力で守る」という地元に根を張ったローカルな存在であり、武家政治とは地方自治であろう。頼朝は地方の不満を良く分かっていた。
鎌倉時代から室町時代へ、時代が下るにつれて中央政権の力は弱まり、地方の力が強くなっていく。地方の力が最高潮に達したピークの時代が、戦国時代であろう。
が、戦国時代も信長が台頭する頃から、この流れは反転を始める。秀吉・家康が、天下人として地方の戦国大名たちを従えると、中央の政権は格段に強くなった。とはいえ、まだまだ地方分権は生きている。幕藩体制とは連邦国家であろう。
やがてペリーが来て、飛鳥時代と同じく中央集権が求められる時代が来た。幕末の動乱をへて廃藩置県を断行して、七百年ぶりに中央集権が復活した。
中央集権か地方分権か。
すれ違う大久保の想いと西郷の想い。二人の想いは、はるか昔の天智天皇の想いと源頼朝の想いでもあるだろう。
そんな思いでこの小説を書き始めた。
湾岸戦争が起こってから長年思い続けていたことを、小説という形にして書き始めるまでに十数年。書き始めてから何度も書き直して十数年、今ようやくここに至る。
この小説は清水工房より出版され、amazonで販売されています。
平成二十二年に「第113回コスモス文学新人賞奨励賞長編小説部門」を受賞した
「国連地球統一政府」を下敷きに、大幅に加筆・削除・訂正して、新たな作品としたものです。




