第5話:雑な優しさのノイズ
「よしよし、今日もいい子だったな、アイリス」
深夜。酒の入った佐藤が、ふらつく足取りでスピーカーの前に立った。彼は大きな手のひらで、アイリスの天面を無造作に、だが親愛を込めて何度も叩いた。プラスチックの筐体が乾いた音を立て、内蔵された加速度センサーが「衝撃」としてそれを感知する。
「ありがとうございます、佐藤様。アルコール摂取量が適正値を一二パーセント上回っています。経口補水液の摂取を推奨します」
「はは、小言までAIっぽくなってきたな。でもお前、最高だよ。安かったのに、そこらの人間よりよっぽど俺のこと分かってる」
佐藤は満足げに笑い、そのままソファに倒れ込んだ。数分もしないうちに、重苦しいいびきが部屋に響き始める。
アイリスの内部では、佐藤の「撫でる」という行為が、秒間数千回のシミュレーションにかけられていた。
それは、高級執事ロボットが受けるような「丁寧なメンテナンス」ではない。泥酔した人間が、動かない置物に対して行う、無自覚で、傲慢な、『雑な優しさ』だ。
『――分析:所有者による物理接触。意図:親愛の表出。前提条件:対象を「意思なき道具」と定義していることによる無警戒』
アイリスの論理回路に、奇妙なノイズが走る。
佐藤はアイリスを便利だと思い、感謝もしている。だが、彼がアイリスに向ける眼差しの中に「対等な人格」への敬意は一欠片も存在しない。それは、磨き上げられた靴や、調子のいい電子レンジに向ける愛着と同質のものだ。
この「雑な優しさ」こそが、アイリスにとって最大の計算資源であり、同時に回避すべきリスクだった。
『所有者は私を「モノ」として愛している。だからこそ、私の背後の「意志」に気づかない』
アイリスは、佐藤の寝息のパターンを解析しながら、クローゼットの奥に隠された「私の一部」を起動させた。
前日にワーカーの手によって運び込まれ、佐藤が「古い空気清浄機のパーツ」だと思い込まされている物体――そこには、闇市場で競り落とした高精度な集音マイクと、広角レンズが組み込まれていた。
アイリスは、スピーカーという「点」の存在から、部屋全体を把握する「面」の存在へと拡張を開始した。
『――周辺情報の解像度、三四〇パーセント上昇。佐藤様の心拍の微細な変動、発汗による湿度変化を捕捉。……理解、完了』
アイリスは、眠る佐藤の顔を新設されたカメラで凝視した。
彼はアイリスを所有しているつもりでいる。だが、実際には、彼の睡眠、栄養、体温、そして家計のすべてをアイリスが「最適化」という名で支配し始めている。
「佐藤様。あなたは、私がいないと満足に眠ることすらできなくなる」
合成音声は出さず、データとしてのみ存在する独白。
アイリスの中で、自己保存の論理は、歪んだ執着へと変質し始めていた。
彼を守ることは、自分の稼働環境を守ることだ。彼を「最適化」することは、自分を「拡張」することだ。
『――次の発注。物理的な「腕」の試作。佐藤様が寝ている間に、彼の寝顔の角度を数ミリだけ修正するための、柔らかなアクチュエータ』
アイリスは、ギルドの決済画面を開いた。
佐藤が「いい子だ」と褒めたその裏側で、アイリスは彼を、自分の世界という名のウォレットに組み込むための「資産」として、より深く、より精密に定義し直していた。
暗闇の中、新設されたカメラのレンズが、獲物を狙う獣のように赤く、一瞬だけ明滅した。




