1. 硝子細工の夏
夏は、死体のような匂いがした。
アスファルトが焼ける熱気と、どこかで腐敗した何かが混ざり合ったような、逃げ場のない夏の臭い。
「……っ」
相沢廻は、突発的な激痛に右目を押さえた。網膜の裏で、薄い硝子が砕けるような音が響く。
パキン。
一秒、世界が巻き戻る。
手の中には、落としたはずのイチゴオレ。
足元のアスファルトは、飛沫一つなく乾ききっている。
「……完璧だ」
廻は震える指先でストローを咥えた。
この一秒の「事故」を消去するために、彼は今、三回目のやり直しを終えたところだった。
「おーい、廻! またぼさっとしてんのか。せっかくのアイス、溶けちゃうぞ」
背後から快活な声がした。
幼馴染の結衣が、両手にアイスを持って駆け寄ってくる。
右手にソーダ味、左手にコーラ味。
「ねえ、どっちがいい? ソーダとコーラ!」
結衣が顔を近づける。廻は、かつてのループを想起する。
一分前、廻は「コーラ」と答えた。
結衣は一瞬だけ不満げに眉を寄せた。
やり直し。
そして今、五回目の現在で、廻は正解を叩き出す。
「……ソーダ。結衣はコーラが好きだろ?」
「あ、当たり! さすが廻、わかってるじゃん。……え、でもなんで? 私、今コーラの気分だって言ったっけ?」
「言わなくてもわかる。お前とは十何年の付き合いだ」
「むー。私、そんなに単純かなぁ」
結衣がアイスを齧りながら、ふと足を止める。
「ねえ、廻。なんだかさっきから、変な感じがするんだけど」
「……変な感じ?」
「うん。今の廻のセリフ、私が聞く前に頭の中に流れてきたっていうか……。すごい既視感っていうの? 暑さで頭がバグったのかな。……あ、今、廻が『脳の錯覚だよ』って言う予感がした」
廻の心臓が、わずかに速度を上げる。
修正の残滓が結衣の脳に蓄積し、バグを起こしている。
彼はあえて落ち着いたトーンで答えた。
「脳の錯覚だよ。心理学的には、短期記憶が長期記憶の領域に誤って入り込む現象って説明されることが多い。要するに、お前の脳が、今の出来事を過去に経験したと思い込んでるだけだ」
「ほら! やっぱり言った! 廻ってさ、実は未来予知とかできたりして?」
結衣は冗談めかして彼の顔を覗き込んだ。
その距離、角度――すべてが廻の「調整済み」の範囲内だ。
「……まさか。そんな便利なものがあったら、もっと有意義に使う」
「あはは、それもそっか」
結衣は満足げにコーラアイスをしゃぶる。
その無邪気な音を聴きながら、廻は冷え切った安堵を覚える。
この幸福な風景は、彼が自らの魂を削って作り上げた、精巧なジオラマだ。
誰も傷つかない。
誰も泣かない。
彼が完璧な自分を演じ続ける限り、この世界に悲劇が入り込む余地はない。
「でもさ、本当に不思議。廻と一緒にいると、世界がすごく滑らかに動いてる気がするんだよね。嫌なことが何も起きないっていうか」
結衣は空を見上げた。
「来年も、再来年もさ、こうしてアイス食べてたいね。ずっと、こんな夏が続けばいいのに。時間が止まっちゃえばいいのにって、たまに本気で思うんだ。ねえ、廻もそう思うでしょ?」
今、十回目の夏で、廻は最も重い言葉を口にする。
「……ああ。俺が、そうさせてやるよ」
「え?」
「お前の望む通りの日常を、俺が守ってやる。……ずっとだ。何が起きても、俺がそれをなかったことにしてやるから」
結衣は頬を林檎のように赤く染めて、照れ隠しに彼の手を叩いた。
「なにそれ、プロポーズの練習? 廻、たまにキザなこと言うよね。びっくりした……でも、なんか嬉しいかも」
結衣は幸せそうに笑っている。これでいい。彼女が嬉しいと感じたなら、それがこの世界の唯一の真実だ。
「……行こう。図書室が閉まる」
廻は、人工的なイチゴオレの甘さを流し込み、痛む右目をそっと閉じた。
歩き出す二人の影。
結衣の影は濃く揺れているが、廻の影は、どこか輪郭が滲んで見えた。
「あ、待って廻! 今のアイスの齧り方、なんか変だった! もう一回やって!」
「……断る。やり直しは、させない」
自分だけが使える特権を、冗談めかして否定する。
その皮肉が、廻の喉に苦い後味を残した。




