14 故郷の味は涙の味
約束の夜。
真新しい深緑色のワンピースに身を包んだミドリは、自分の姿がアッシュフォードの賑やかな街並みから浮いていないことに、少しだけ安堵していた。
隣を歩くノフーも、新調した茶色のシャツとズボンがすっかり馴染んで、もはやただの村の少年ではなく、凛々しい若者の顔つきをしている。
先導してくれるレオの洗練された立ち居振る舞いと比べれば、まだぎこちなさは残る。だが、二人の胸には、村の未来を担うという誇りと、これから訪れる未知の体験への、抑えきれない高揚感が満ちていた。
「さあ、着いたよ。ここが、今のアッシュフォードで最も予約が取れない店、『旅人の食卓』さ」
レオが指し示した先には、目抜き通りの中でもひときわ温かい光を放つ、一軒の店があった。磨き上げられたオーク材の重厚な扉、季節の花々が彩る大きなガラス窓、そして金文字で優雅に綴られた看板。その隣には、アッシュフォード侯爵家から直々に賜ったという『御用達』の紋章が、誇らしげに掲げられている 。
そこは、ただの料理屋ではなかった。訪れる者に、最高の時間と幸福を約束する、特別な場所。そんなオーラが、店全体から溢れ出ていた。
扉を開けた瞬間、三人は幸福な香りの渦に包まれた。肉が焼ける香ばしい匂い、スパイスの複雑で魅惑的な香り、そして、どこか懐かしい、甘くて優しい揚げ物の匂い。活気に満ちた客たちの笑い声と、カトラリーが皿に当たる心地よい音。その全てが完璧な協奏曲となって、ミドリとノフーの心を鷲掴みにする。
「いらっしゃいませ!」
揃いのユニフォームに身を包んだ、若く美しいウェイトレスが、太陽のような笑顔で三人を出迎えた 。彼女の名はラーラ 。この店の看板娘であり、後にミドリが知ることになる、もう一人の転生者の、最愛の妹だった。
レオが予約名を告げると、三人は窓際の、眺めの良い席へと案内された。テーブルの上には、神様から贈られたという、真っ白で滑らかな陶器の皿と、銀色に輝くカトラリーが、美しく並べられている 。ミドリとノフーは、そのあまりの場の違いに、背筋を伸ばして固まっていたが、レオは慣れた様子でメニューを開いた。
「さて、と。ここは迷う必要はないね。この店に来たなら、まずはこれを食べなければ始まらない」
彼が指差したのは、メニューの一番上に、誇らしげに記された一品だった。
『黄金のコロッケ定食』。
「コロッケ……?」
ミドリの心臓が、小さく、しかし確かに、とくん、と音を立てた。その響きに、覚えがあった。レオが以前、村で口走った、あの言葉だ。そして、自分の失われた世界の、あまりにも日常的だった、あの食べ物の名前。
(まさか……。やっぱり、ただの偶然⋯よね…?)
期待と不安が、胸の中で渦を巻く。やがて、ラーラが、湯気の立つ三つの皿を、テーブルへと運んできた。
その瞬間、ミドリの目は、皿の上に鎮座する、その黄金色の塊に釘付けになった。
完璧な俵型。きつね色に揚がった、見るからにサクサクとしていそうな衣。その隣には、千切りにされた瑞々しい葉物野菜と、艶やかな黒いソースと赤いソースが添えられている。
見た目は、ミドリが知る「コロッケ」そのものだった。だが、問題は、味だ。
「さあ、冷めないうちに。火傷には気をつけて」
レオに促され、ミドリは震える手で、銀のフォークを手に取った。そして、意を決して、コロッケの端に、そっとフォークを入れる。
サクッ……!
その、あまりにも心地よい、軽やかな音が、耳に届いた瞬間。ミドリの全身に、鳥肌が立った。この音。この感触。これは、前世で、何度も、何度も聞いた音だ。
学校帰りに友達と頬張った、コンビニのホットスナック。母が、たまに作ってくれた、少しだけ形のいびつな、手作りのコロッケ。
ひとかけらを口に運ぶ。
衣のサクサクとした食感のすぐ後に、舌の上でとろけるように広がる、ポポイモのクリーミーな舌触り。そこへ、飴色に炒められたルタオニオンの濃厚な甘みと、丁寧に叩かれたボアのひき肉の力強い旨みが、怒涛のように押し寄せてくる 。
(……あ……)
美味しい。
そんな、陳腐な言葉では、とても表現しきれない。
これは、ただ美味しいだけではない。
これは、日本の味だ。
私が、トラックに轢かれ、全てを失ったはずの、あの世界の味が、する。
懐かしい。
会いたかった。
もう二度と、味わうことはできないと、諦めていた、私の、故郷の味が、する。
気づけば、ミドリの瞳から、熱い雫がこぼれ落ちていた。
次から、次へと。ぽろぽろと、大粒の涙が、後から後から溢れ出して、止まらない。
「ミ、ミドリ姉ちゃん!? どうしたんだよ!? もしかして、不味かったのか!?」
隣に座っていたノフーが、狼狽したように声を上げる。
「ミドリちゃん……?」
レオも、驚いたように、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。
ミドリは、慌てて涙を手の甲で拭った。だが、一度決壊した涙腺は、そう簡単には言うことを聞いてくれない。
「……ううん、違うの。違うのよ、ノフー」
彼女は、しゃくりあげながら、必死に言葉を紡いだ。
「……美味しくて……。あまりにも、美味しくて……。私の故郷、東の国で、昔、よく食べていた、懐かしい、懐かしい味がしたから……。ごめんなさい、びっくりさせちゃって……」
「そうか……。そんなに、思い出の味だったんだね」
レオは、深く納得したように頷き、ミドリにそっと水の入ったグラスを差し出した。ノフーは、まだ心配そうにしていたが、ミドリが「本当に美味しいのよ」と涙ながらに微笑むと、少しだけ安堵したように、自分もコロッケを一口食べ、そして、目を丸くした。
「うめええええっ! なんだこれ! 俺、今まで食ったもんの中で、一番うめえぞ!」
涙を拭い、少しだけ落ち着きを取り戻したミドリは、改めて店内を見回した。この奇跡の料理を生み出したのは、一体、どんな人物なのだろう。厨房は、ホールの奥にあり、中の様子までは窺えない。だが、司令塔として、時折ホールに出てきては、スタッフに的確な指示を飛ばしている、一人の女性の姿が、ミドリの目に留まった。
歳は、まだ若い。私より少し上くらいだろうか 。艶やかな黒髪を、きゅっとポニーテールにまとめ、店のシンボルであるコロッケの刺繍が入った、汚れ一つない純白のコックコートに身を包んでいる 。その立ち居振る舞いには、若さに似合わない、絶対的な自信と威厳が満ちていた。
(黒髪……)
この世界では、珍しい髪の色だ。ミドリは、無意識に、その女性の姿を目で追っていた。
そして、ふとした瞬間。
その女性が、何かの気配を感じたかのように、ふっと顔を上げた。
ミドリの視線と、その女性の視線が、賑やかな店内の喧騒を突き抜けて、まっすぐに、交差した。
その瞬間。
ミドリの心臓が、大きく、跳ねた。
(……え?)
あの顔。
あの、切れ長の涼やかな目元。少し薄い唇。それは、この世界の、彫りの深い顔立ちの人々とは、明らかに違う。毎日鏡で見ていた自分とそっくりな、懐かしい故郷の面影を宿した顔立ちに、ミドリは息を呑んだ。
そして、それは、相手も同じだった。
女性――ユーユは、ミドリの姿を認めた瞬間、その常に冷静沈着な表情を、わずかに、しかし確かに、驚愕の色に染めた。
(黒い髪……ボブカット……。あの顔立ちは……まさか……)
彼女の脳裏に、ギルドマスターから聞いた噂が、雷鳴のように蘇る。西の果ての、名もなき村。魔法のバラを咲かせ、奇跡の野菜を育てる、黒髪の少女。その名は、ミドリ 。
ユーユは、プロとしての仮面の下で、激しく動揺していた。だが、彼女は、決してそれを見せることなく、すっと表情を整えると、自ら、ミドリたちのテーブルへと、静かに歩み寄ってきた。
「いらっしゃいませ、『旅人の食卓』へ。私、この店の責任者をしております、ユーユと申します」
その声は、鈴が鳴るように澄んでいて、どこまでも丁寧だった。
「皆様、お食事は、お口に合いましたでしょうか?」
「ええ、素晴らしい! こんなに美味いものは、王都でも滅多にお目にかかれませんよ!」
レオが、感嘆の声を上げる。
「本当に美味い!俺、このコロッケってやつ、毎日でも食えるぜ!」
ノフーも、興奮気味に続く。
ミドリは、ただ、目の前に立つユーユの顔を、見つめていた。その声、その言葉遣い。全てが完璧な、この世界の住人のものだ。
(……私の、勘違い……?)
「お客様も、お気に召していただけたようで、何よりでございます」
ユーユは、ミドリに向かって、穏やかに微笑みかけた。その笑みは完璧だったが、その瞳の奥に、隠しきれない緊張と、探るような光が宿っているのを、ミドリは見逃さなかった。
賭けに、出るしかない。
ミドリは、意を決した。彼女は、村への土産物を入れるために持ってきていた、小さな布の袋に手を入れると、何かを探すふりをして、テーブルの上に、一つのものを、ことりと置いた。
それは、色鮮やかな、花の絵が描かれた、小さな紙の袋。
そこには、ミドリの世界の言葉、日本語のカタカナで、はっきりとこう書かれていた。
『サカヤの種』と。
その、カラフルなパッケージを見た瞬間。
ユーユの、完璧なポーカーフェイスが、初めて、ほんのわずかに、崩れた。彼女の瞳が、信じられないものを見るかのように、大きく見開かれ、そして、次の瞬間には、元の冷静な表情へと戻っていた。だが、その一瞬の変化を、ミドリは見逃さなかった。
間違いない。
この人も、私と、同じだ。
「……お客様」
ユーユの声が、ほんの少しだけ、震えている。
「その、お客様がお召しのワンピース……その、胸元の花の刺繍が、大変、珍しく、美しいものでございますね」
唐突な、話題転換だった。レオもノフーも、きょとんとしている。
「実は、私も、似たようなデザインの刺繍を試みているのですが、どうにも、上手くいきませんで。もし、ご迷惑でなければ、ほんの少しだけ、お店の裏で、その刺繍の縫い方を、見せてはいただけませんでしょうか。すぐに、済みますので」
それは、少し強引で、不自然な口実だった。だが、今の二人には、それ以外の方法が思いつかなかった。
「え、ええ。もちろんです。構いませんよ」
ミドリは、こくりと頷いた。
「では、レオさん、ノフー。少しだけ、席を外すわね」
「お、おう……」
「ミドリ姉ちゃん、刺繍、得意だったのか?」
不思議そうな顔をする二人を残し、ミドリは、ユーユに導かれるまま、店の奥へと向かった。
厨房を抜け、従業員用の、小さな裏口の扉を開ける。ひんやりとした夜の空気が、火照ったミドリの頬を撫でた。そこは、店の喧騒から完全に切り離された、静かな裏庭だった。エリーが愛情を込めて育てているハーブの、清涼な香りが、あたりに漂っている。
ユーユは、ミドリに向き直ると、静かに、裏口の扉を閉めた。
パタン、という小さな音が、二人の間に、まるで世界の終わりと始まりを告げる合図のように、響き渡る。
長い、沈黙。
先に、その沈黙を破ったのは、ユーユだった。
彼女は、それまでの、完璧な接客用の仮面を、全て脱ぎ捨てていた。そこにいたのは、店の責任者ユーユではなく、ただの、一人の、日本人、佐藤祐子だった。
「……あなた」
その声は、震えていた。
「……日本人、でしょう?」
その、あまりにも直接的で、あまりにも懐かしい響きの言葉に、ミドリの堪えていた涙腺が、再び、完全に決壊した。
彼女は、もう、何も言えなかった。ただ、何度も、何度も、こくこくと、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、頷くことしかできない。
その肯定の仕草を見て、ユーユの目からも、熱い涙が溢れ始めた。
「……そう。……そう、なのね……。ああ、神様……」
彼女は、天を仰ぎ、感謝とも、嘆きともつかない、深い息を吐いた。
「小林、翠です。農業高校、三年生……でした」
「……佐藤、祐子。契約社員で、五十歳……だったわ」
ユーユはそこで一度言葉を切ると、自嘲するように、ふっと笑った。
「信じられる? この世界に来て、今はあなたより少しだけ年上の、十九歳なのよ」
途切れ途切れの、自己紹介。
「トラックに、轢かれて……」
「私は、過労死……」
お互いの、あまりにもありきたりな、異世界転生あるあるな死因に、二人は、涙で濡れた顔のまま、ふっと、小さく笑い合った。
その笑いをきっかけに、堰を切ったように、言葉が溢れ出した。
「信じられない……。私以外にも、いたなんて……!」
「私も! あのコロッケの味……あれは、間違いなく、日本の……!」
「『サカヤの種』! あのパッケージを見た時、心臓が止まるかと思ったわ!」
「私こそ! 黒髪の人がいるって、噂では聞いていたけど、まさか、本当に……!」
コンビニ。スマホ。アニメ。SNS。桜並木。自動販売機。
二人しか理解できない、失われた世界の言葉たちが、次から次へと、口をついて出る。それは、この世界に来てから、ずっと、心の奥底にしまい込んでいた、宝物のような、それでいて、呪いのような記憶だった。
「……会いたかった」
ミドリが、子供のように、声を上げて泣きじゃくった。
「寂しかった……! ずっと、一人だと思って……! 怖かった……!」
「……うん。うん、分かるわ。私も、そうだったから」
ユーユは、そんなミドリの小さな体を、母が子を抱きしめるように、優しく、それでいて力強く、抱きしめた。ミドリの涙が、ユーユの純白のコックコートを濡らしていく。ユーユの涙もまた、ミドリの黒髪を、静かに濡らしていた。
二人は、どちらからともなく、その場にしゃがみ込むと、ひとしきり、声を上げて泣いた。
それは、孤独だった魂が、ようやく半身を見つけたかのような、魂の邂逅だった。
どれくらいの時間が、経っただろうか。
涙が枯れる頃には、空には、美しい満月が昇っていた。
「……ふふ。ごめんなさい、年甲斐もなく、取り乱してしまったわ」
ユーユが、目元を拭いながら、照れたように笑う。
「ううん、私こそ……。でも、よかった。会えて、本当によかった……」
ミドリも、しゃくりあげながら、心の底から微笑んだ。
二人は、改めて、お互いのことを見つめ合った。そして、相手が、この異世界で、自分だけの力で、確かな幸せを掴み取っていることを、言葉にしなくても、はっきりと理解した。
「あなたには、大切な人がいるのね」
「……うん。あなたにも」
心配は、いらない。私たちは、どちらも、もう、一人ではない。この世界に、私たちの居場所は、ちゃんとある。
「……ねえ、ミドリさん」
ユーユが、料理人の顔に戻って、目を輝かせた。
「あなたの、その『魔法のバラ』と、野菜のこと、もっと詳しく、聞かせてもらえないかしら。私のコロッケと、あなたの野菜。もし、この二つが出会ったなら……きっと、とんでもない奇跡が起きるわ」
その言葉に、ミドリも、力強く頷いた。
「はい! 私も、あなたの料理をもっと知りたいです! 私のバラで、もっともっと、美味しいものが作れるなら……!」
まだ見ぬ未来への、新しい、そしてとびきり美味しい夢。それは、二人の間に生まれた、最初の共同作業だった。
「これからも、連絡を取り合いましょう。レオ君なら、きっと、私たちの間の、秘密の郵便屋さんになってくれるはずよ」
「はい!」
店に戻ると、レオとノフーが、心配と好奇が入り混じった顔で、二人を待ち構えていた。
「いやあ、刺繍の話が、あまりにも盛り上がってしまって。ごめんなさいね」
ユーユが、完璧な笑顔でそう言うと、レオは「いえいえ」と首を振りながらも、何かを察したように、意味ありげな視線をミドリに向けた。
私たちは、ユーユと、固い握手を交わした。それは、ただの別れの挨拶ではない。この世界で共に戦う、同志としての、誓いの握手だった。
店を出ると、アッシュフォードの夜空には、満月が、どこまでも明るく輝いていた。
ミドリは、空を見上げた。
この世界は、広くて、まだ知らないことばかりだ。でも、もう、怖くはない。
孤独ではない。
この空の下に、自分と同じ故郷の記憶を持ち、同じように、この世界で懸命に生きている、心強い先輩がいる。
その事実が、何よりも、ミドリの心を、温かく、そして力強く、照らしてくれていた。
ミドリの異世界での物語は、今日、この日、一人の仲間を得て、また新しい、大きな一歩を踏み出したのだった。
前作で大活躍した、ユーユに登場してもらいました(^^)
ご一読いただきありがとうございます!
思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。
もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。
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