第九話 感情の商人
第九話 感情の商人
北の丘から戻った後も、ディエスの頭からあの光景は離れなかった。
エロピス=アガピトス。
愛を結晶にした男。
そして、
記憶の中にいたはずの商人。
アパティス=エンプロス。
ありえない。
普通なら。
記憶は過去だ。
過去にいる人物が未来の自分たちを認識することなど不可能。
だが、
彼は確かにこちらを見ていた。
そして話しかけてきた。
その夜。
テルモティアは神殿の会議室にいた。
机の上には大量の資料。
ディエスも一緒だ。
「見つかりましたか?」
テルモティアは首を振った。
「ない。」
「ない?」
「アパティス=エンプロスという人物の記録が。」
沈黙。
それはおかしい。
商人なら税記録。
入国記録。
商業組合の登録。
何かしら残るはずだ。
だが何もない。
まるで。
最初から存在していないかのように。
その時だった。
コン。
誰かが扉を叩いた。
二人が振り向く。
神官かと思った。
違った。
そこにいたのは。
帽子を被った男。
旅装束。
柔らかな笑み。
そして、
どこか現実感のない存在感。
ディエスは立ち上がる。
「お前……!」
男は帽子を軽く持ち上げた。
「こんばんは。」
「ようやく直接お話できますね。」
アパティス=エンプロス。
本人だった。
テルモティアの魔力が膨れ上がり、室内の温度が急上昇する。
ディエスの周りも凍てつくような寒さを感じさせる。
しかし、
アパティスは笑顔のままだ。
「そんなに警戒しなくても。」
「私はただの商人ですよ。」
「嘘をつけ。」
テルモティアが言う。
空気が震える。
精霊神の威圧。
普通の人間なら立っていることすらできない。
それでも、アパティスは平然としていた。
「確かに普通ではありませんね。」
彼は椅子を引いて勝手に座る。
まるで自分の部屋だ。
ディエスは呆れる。
「勝手に座るな。」
「ありがとうございます。」
「許可してない。」
「そうでしたか。」
全く気にしていない。
テルモティアが本題へ入る。
「何者だ。」
アパティスは少し考え、
「感情の収集家。」
そう答えた。
「収集家?」
「ええ。」
彼は微笑む。
「感情は美しい。」
「怒りも。」
「悲しみも。」
「希望も。」
「幸福も。」
「愛も。」
「全て美しい。」
ディエスが眉をひそめる。
危険な思想だ。
少なくとも普通ではない。
「だから集めているんです。」
「結晶を。」
テルモティアの目が鋭くなる。
「お前が作ったのか。」
歪んだ愛の結晶。
アパティスは首を横に振った。
「いいえ。」
「私は作れません。」
「ただ見つけるだけです。」
「そして運ぶ。」
「必要な場所へ。」
ディエスが問う。
「なぜアマルティアに渡した。」
アパティスは少しだけ考える。
「相性が良かったからです。」
「ふざけるな。」
ディエスが怒る。
しかしアパティスは真面目だった。
「本当にそうなんです。」
「優しい人ほど影響を受ける。」
「だから彼は選ばれた。」
その言葉にテルモティアが立ち上がる。
「人の人生を実験に使ったのか。」
炎が揺れる。
今にも爆発しそうな怒り。
でも、アパティスは静かだった。
「違います。」
初めて笑みが消える。
「私は試したわけではありません。」
「見届けただけです。」
その瞬間。
ディエスは違和感を覚えた。
悲しそうだ。
この男は。
どこか。
とても悲しそうだった。
「なぜそんな顔をする。」
思わず口から出た。
アパティスは少し驚く。
そして小さく笑った。
「分かりますか。」
沈黙。
彼は窓の外を見る。
夜空。
星々。
遥か彼方。
「私は。」
静かな声だった。
「失われる感情を見るのが嫌なんです。」
ディエスとテルモティアは黙る。
「人は死ぬ。」
「記憶も消える。」
「愛したことも。」
「怒ったことも。」
「願ったことも。」
「いつか消える。」
彼は続ける。
「だから残したい。」
「それだけです。」
その言葉だけは。
嘘ではないように聞こえた。
だが、だからといって許されるわけではない。
テルモティアが言う。
「その結果、人が苦しむ。」
アパティスは頷いた。
「そうですね。」
否定しない。
「だから私は善人ではありません。」
静かな声だった。
彼は立ち上がる。
「では。」
「今日はこれで。」
「待て!」
ディエスが叫び、
氷の魔法陣が浮かぶ。
だが……
遅かった。
風が吹く。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
空気が揺らいだ。
次の瞬間。
アパティスの姿は消えていた。
完全に。
跡形もなく。
残されたのは。
机の上に置かれた一枚の紙。
テルモティアが拾う。
そこには。
たった一文。
『それはまだ始まりに過ぎません。』
それに加え、
『歪んだ愛は最も弱い結晶です。』
部屋が静まり返る。
ディエスの背筋に冷たいものが走る。
最も弱い。
つまり、
もっと危険なものがある。
もっと歪んだ感情が。
もっと強大な結晶が。
存在するということを……
これで、歪んだ宝玉は完結です。
いかにも、まだ続きがありそうな…
という終わり方をしましたが、想像力を働かせて、続きを考えてみてください!
最後までお読みいただきありがとうございました。
一応完結はしていますが、続編をかけるような構成に仕上げているため、
作者の気分次第では、第二章などがあり得るかもしれません。




