第一話 優秀な役人
衛火三〇一一年。
少し寒さが増した季節。
クロノスティア大陸西部に位置する行政都市アウレリア。
朝日が石造りの街並みを照らし始める頃、一人の青年が役所の前を足早に駆け抜けていた。
彼の手には数枚の報告書が握られている。
青年は役所の階段を駆け上がり、そのまま最上階の執務室へと飛び込んだ。
「失礼します!」
勢いよく扉を開けると、部屋の奥では一人の女性が書類に目を通していた。
燃えるような赤髪に、鋭い瞳。
しかしその表情には不思議な温かさも宿っている。
当代の炎の精霊神、テルモティア=マギアだった。
「どうした?」
テルモティアは顔を上げる。
青年は一礼して報告書を差し出した。
「またです。」
その一言だけでテルモティアの眉が僅かに動く。
「アマルティアか」
「はい」
部屋に沈黙が落ちる。
テルモティアは報告書を受け取り、ゆっくりと目を通した。
住民からの苦情に行政処理の遅延、不自然な命令や会議の欠席、部下との衝突……
どれも同じ人物について書かれている。
”アマルティア=アガピトス”
役所でも指折りの優秀な役人だった。
いや、優秀という言葉だけでは足りない。
”真面目”
”誠実”
”公正”
誰よりも住民のことを考える男。
それらの言葉がこれ程似合う男は他にはいるまい。
その働きぶりから、将来的には高官になるだろうと誰もが考えていた。
そんな男がここ数か月で急激に変わったのだ。
テルモティアは静かに報告書を閉じた。
「本人は何と言っている?」
「問題ない、と」
青年は困ったように下を向き、答える。
「自分は今まで以上に職務に励んでいると主張しています」
「ふむ」
テルモティアは椅子にもたれた。
正直、それが一番厄介だった。
病なら治療できる。
犯罪なら裁ける。
だが本人が善意で動いている場合は話が違う。
しかもアマルティアは長年の実績がある。
簡単に処分できる人物ではなかった。
「具体的には?」
テルモティアが尋ねると、青年は次の書類を差し出した。
「こちらを」
テルモティアは目を通す。
外出許可申請
却下
理由:『事故の可能性があるため』
農地拡張計画
却下
理由:『将来的な危険が予測されるため』
商業区画整備案
却下
理由:『住民を危険に晒す可能性があるため』
テルモティアは思わず息を吐いた。
内容だけ見れば間違ってはいない。
だが極端だ。
あまりにも極端だった。
「全部危険だから禁止か」
「はい」
青年は頷く。
「最近のアマルティア殿はそういう判断ばかりです」
「以前なら?」
「住民と相談しながら折り合いを探していました」
テルモティアは窓の外を見る。
街はいつも通り賑わっている。
パン屋の煙。
市場の呼び声。
学校へ向かう子供たち。
平和な朝だ。
だからこそ異変は目立つ。
「他には?」
青年は少し迷った。
「……噂です」
「構わん」
「最近のアマルティア殿は、よくこう言うそうです」
青年は言葉を選ぶように続けた。
「皆を守るためなら、多少の自由は必要ない」
テルモティアの目が細くなる。
「本人が?」
「はい」
「何度も?」
「”何度も”です」
部屋の空気が少し重くなった。
それは確かにアマルティアらしい言葉にも聞こえる。
彼は元々責任感の強い男だった。
住民を守るためなら徹夜も辞さない。
災害が起きれば真っ先に現場へ向かう。
そういう男だ。
それでも、何かがおかしい。
ほんの僅かな違和感。
だがその違和感は確実に存在していた。
まるで、同じ言葉を別人が使っているような感覚。
「分かった」
テルモティアは立ち上がった。
「これは私が直接見る」
青年が安堵したように頭を下げる。
「ありがとうございます」
テルモティアは執務机の横に置かれた鐘を鳴らした。
その数秒後に扉が開くと、現れたのは青髪の青年だった。
落ち着いた雰囲気を持つ青年、ディエス=アポトス
精霊神直属の調査官である。
「お呼びでしょうか。」
テルモティアは報告書を彼へ渡した。
ディエスはざっと目を通す。
そして静かに眉を上げた。
「アマルティア殿ですか」
「知っているな?」
「もちろんです」
ディエスは頷いた。
「昔、一度会ったことがあります」
「どんな人物だった?」
テルモティアが尋ねる。
ディエスは少し考えた。
そして答える。
「優しい方でした」
短い言葉だった。
だが迷いはなかった。
「優秀な役人はいくらでもいます」
「ですが、優しい役人は案外少ない」
「だから印象に残っています」
テルモティアは腕を組んだ。
やはりそうだ。
誰に聞いても悪評は出てこない。
出てくるのは最近の異変ばかり。
「調査だ」
テルモティアが言う。
「まずは話を聞く」
ディエスは静かに頷いた。
「了解しました」
そのとき、ちょうど、窓の外で鐘の音が鳴った。
街の中央塔から響く朝の鐘
街の一日が本格的に始まる合図だ。
テルモティアは窓の外を見つめた。
なぜだろう。
胸の奥に小さな違和感が残っている。
ただの職務不良。
それだけならいい。
だが長い年月を生きてきた精霊神の勘が告げていた。
これは単なる怠慢でも病気でもない。
何か別のものが絡んでいる。
まだ見えない何かが。
静かに、確実に……
アマルティア=アガピトスを蝕んでいる。




