第31話 クッキーという違和感
菓子を渡した騎士と別れ、拠点にしている宿屋に戻った。
ルドガーのタワーシールドが宿の扉につっかえているが、時間が惜しいので置いていく。
宿へ戻るなり、自分の部屋には戻らず、ソフィアの部屋のドアを静かに叩いた。少しすると、寝巻き姿のソフィアが扉から顔を出した。
「あれ、早かったね。飲み物は?」
「ペナンのジュースを買ったから後で渡す。それより、今朝の菓子を二セット。銀貨三十枚分、用意できるか?」
「えぇ、いつまでに?」
「明日だ」
「明日!? 間に合うかな……」
「頼むから、なんとか間に合わせてくれ。作戦の成否がかかってるんだ」
アリスと出会う必須のアイテムになる。手ぶらで行ってもあの騎士は決してアリスに合わせてくれないだろう。
ソフィアの顔が真剣なものに変わる。僕の熱意が伝わったようだ。
「うん、そうだね。商会を取り戻すなんて無謀なことするんだから、少しは無理が必要だよね」
すまん、ソフィア。そっちじゃない。
そっちじゃないが、やる気を出してくれているので否定はしなかった。
「まかせて。明日の朝までにはなんとかする。お金だけなんとかなるかな?」
懐から大銀貨を五枚渡す。
「可能なら三セット。どうしても無理なら二セットでいい」
「増えてるじゃん……違う種類を買えばいいのに」
「違うのがあるのか? じゃあ最初のを二つ。追加で別の種類を一つ」
「わかった。仕入れに行くから、何か変装できる服を持ってきてよ」
「よし、ちょっと待て。俺の服でもいいか?」
「新品がいいけど。まぁ、いいか」
ソフィアが不満そうな点には目を瞑る。
今からもう一度市場に行く気にはならない。部屋に取って返し、一番汚れていない服を手に取る。
「ほら、これ貸してやるよ」
「着替えるから、ちょっと外で待っていて」
しばらくすると扉が開き、俺の服を着て、帽子に髪を押し込んだソフィアが現れた。
多少イメージは変わるし、なんとかなるか?
「よし、行こうか。危ないから私の近くから離れないでね。私一人だと簡単に死ぬからね」
危ないのはソフィアの方か。どんな危険地帯に行くのかと思った。
宿を出て、ソフィアと歩く。意地でもタワーシールドを手放さないルドガーは置いてきた。
ソフィアは迷いなく歩く。まるで自分の庭のように、軽快に道を進んでいく。
宿を出てすぐ、通りの空気が変わっていることに気づいた。
昨日まで酒と笑い声で埋まっていた道に、今日は妙な隙間がある。
店先で話していた男たちは、騎士の鎧が見えるたびに口を閉じた。
子どもを連れた女が、僕たちと目が合う前に戸を閉める。
しかし、その進行方向は繁華街ではない。
「こんな方に店があるのか?」
「あるよ。一流の店が」
間違いではないようだ。隠れた名店ってやつだろうか。
確かに、ソフィアの持っていた菓子はうまいのに、一度も店を見たことがなかった。
恐らく、限られた常連だけが知っている店だ。
ソフィアの足取りが止まる。その前にあるのは、普通の民家だった。
ソフィアは扉の前で一度だけ息を整えた。
さっきまでの軽い調子が消えている。商人の顔だ。
コツコツと扉を叩くと、中から女性が出てきた。
「サーシャの紹介で」
その一言を聞いた瞬間、女性の目がわずかに細くなった。
断るか、受けるか。ほんの一瞬だけ、扉の向こうで値踏みされているのがわかった。
「明日の朝、クッキー二つ手に入るかな? あと別のお菓子もあれば一つもらいたい」
そう言って、ソフィアは俺の渡した大銀貨を取り出す。
「大丈夫ですよ。明日、鐘が一つ鳴った後に取りに来てください。お代は銀貨四十五枚です」
躊躇いもなく、ソフィアが俺の金を渡す。
高い出費だが、仕方ない。
「珍しいね。買えないかと思った」
「少し街が騒がしいですからね。いずれ人が戻って、また買えなくなりますよ」
「そうだよね。ちょっとおまけしてくれたり?」
「新作を少しおつけしますよ。明日、楽しみにしておいてください」
「言ってみるもんだね。ありがとう」
ソフィアが会話を切り上げ、宿に戻ることになった。
「いや、ここ、ほとんど買えないのに。騎士様様だね。クッキーを考えるなんて天才だと思わない?」
「菓子商人って、この街で買うのか?」
「そうだよ。大丈夫。この店、紹介がないと入れないから。なんでも、元々領主様の専属料理人なんだって」
僕はこの世界で、クッキーを初めて見た。
クッキー。
その名前を聞いた瞬間、頭の奥で、元の世界の記憶が少しだけ揺れた。
コンビニの袋菓子。安い缶入りの詰め合わせ。母親が来客用に出していた、妙に甘いバターの匂い。
そんなものが、この世界にある。
元の世界とは違う世界で、同じ形状で、同じ名前の食べ物が生まれるものなんだろうか?
元領主の料理人。自分で考えたのか、誰かからレシピを習ったのか。
パンやスープのことを考えると、僕の頭の中で翻訳されて、同じ意味合いの言葉になっているだけなのかもしれない。
けれど、紹介がなければ入れない店で、元領主の専属料理人が、客を選んで菓子を売っている。
そこに、元の世界と同じ名前の菓子がある。
偶然だと笑うには、少しだけ材料が揃いすぎていた。




