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【番外編SS】ピオニーの婚約指輪

 もう間もなく出航する商船に乗り込もうとしていたとき、背後から声をかけられた青年は、やや眉をしかめて振り返る。


「……もう出航なのですが」

 青年は平然と不満を口にする。


 朝のごった返す港の人垣を悠然とかき分け、こちらに近寄ってくるのは、はっと目を引くほど容姿端麗な若い紳士だった。

 紳士の服装や身につけている服飾品は最高級のもので、洗練された身のこなしからも、あきらかに高位貴族であることがうかがえる。


 自分はいまではそれなりの地位を築けてはいるものの、出自はたかだか平民にすぎない。


 本来なら、自分を呼び止めた貴族相手に不満を口にできる身分ではなく、怒りを買ってもおかしくないのだが、相手の若い紳士はさして気にしていない様子で、

「ああ、わかっている。だから急いで来たんじゃないか」

 と口にする。


 言葉とは裏腹に、さほど急いだふうには見えない。おおかた急いだのは、馬車を走らせる御者だろう。いま頃、汗だくになって胸をなで下ろしているに違いない。


 青年は体の向きを変え、ため息を漏らしながら、

「……ご用はなんですか。セドリックさま」

 と相手の名前を口にする。


 このレザーク王国でも随一の権力と財力を誇るスペディング公爵家。

 青年を呼び止めたのは、その公爵家の嫡男(ちゃくなん)であるセドリックだった。


「ああ、急いで仕上げてもらいたいものがあるんだ。今日から、またしばらく出かけるんだろう?」

 セドリックは淡々と言う。


 青年は心の中で、わかっているなら引き止めないでほしいと思う。


 青年の容姿は、細身の長身。眼鏡をかけ、堅苦しそうな無表情。職業はどことなく数字を扱う会計士を連想させるが、じつはここ数年、頭角を現している宝飾デザイナーだ。

 セドリックに支援してもらって、いまの地位がある。

 多大な恩があると言えるのだが、青年は感情を素直に表に出したり、おおっぴらに媚びを売ったりすることには慣れていない。


「ええ、わかっていらっしゃるなら、引き止めないでいただきたいものです」

 先ほど心の中で思った不満をしれっと口にする。


 青年は宝飾デザイナーのかたわら、素晴らしい宝石に生まれ変わる素質のある原石を探しに、定期的に周辺諸国を数ヶ月かけて回る旅に出る。

 今朝はその出航で、正直なところ、急ぎの依頼を請け負える状態ではない。衣類や身の回りのものなどを詰めた荷物はもう船に積んである。


「まあ、そう言わないでくれ。婚約指輪がほしいんだ」


 そのセドリックの言葉を聞いて、元々乏しかった青年の表情はさらに無表情になる。


 ややあってから、青年は軽く咳払いして、

「──私としたことが、聞き間違えたようです。もう一度おっしゃっていただけますでしょうか?」

 確認するように尋ねる。


 セドリックは柔らかく微笑んで、

「いいや、間違ってはいないよ。婚約指輪だ。私の最愛の人へ贈るためのね」


 青年はポカンと口を開けた。


「あなたが──? ご婚約されるんですか? まさか」

 無礼にもほどがあるが、思わずそう口にする。


 青年が知るセドリックは、その高い地位や整った容姿から、数多の令嬢が彼の妻になりたいと切望していることは周知の事実だ。

 その一方で、彼がこれまで婚約者を決めず、どんな令嬢に対してもやさしく接しはするが特別な関係になることはないのは、青年もよく知っていた。


 以前、セドリックから、彼の友人が婚約者に贈る婚約指輪のデザインの依頼を受けたとき、話の流れで、

『セドリックさまは、ご婚約される予定はないんですか?』

 と何の気なしに、青年は訊いたことがある。


 彼ほどの高位貴族であれば、幼い頃に最適な地位の令嬢と婚約を結んでいるのが一般的だ。

 しかしセドリックは、相手を決めるのをずっと頑なに拒んでいるらしいという噂だった。


 青年の質問に、セドリックは、やけに自嘲するように笑って、

「ああ、ないだろうね、絶対」

 ときっぱりと答えたのだった。


 そのときのことを青年は、いまでもはっきりと覚えている。


 青年は下町の小さな商会の会計士をしながら、宝飾デザイナーを志していたが、なかなか芽が出ず、もう潮時かと思っていた頃、セドリックに才能を見出され、支援を受けて、いまでは王都に自らの名前を掲げた宝飾店を構えるまでになっていた。


 青年の性格上、表には出せていないが、セドリックには大きな恩を感じている。


 もしセドリックに愛する人ができて、その女性のための婚約指輪や結婚指輪を望んだときには、自分がもてる最高の技術で応えたいと思っていたが、おそらくその機会は永遠にこないだろうと密かに肩を落としていた。


 青年は、体の中からふつふつと熱が湧き上がるのを感じた。

 これまで書き溜めてきたいろいろなデザインが頭の中を駆けめぐる。

 すでに最高の出来になるだろうという予感さえある。


「──いつまでに?」

 青年は感情の(たかぶ)りを抑えながら、セドリックに尋ねる。 


 セドリックは少しばかり考えたあとで、

「そうだな、なるべく早いほうがいいが、一度プロポーズを断られているからね。昨日出会ったばかりだし、少し焦りすぎたから、ひとまず一ヶ月くらいは様子を見るつもりだ」


 青年はその言葉でまた度肝を抜かれた。


「──まさか、この世にあなたのプロポーズを断るご令嬢がいるんですか? というか、昨日出会ったばかりなんですか?」


 本心だった。

 青年が知る中でも、これほどまでにすべてにおいて優れた男はいない。

 その上、そんな男が初対面でプロポーズしてしまうほど、相手の令嬢は絶世の美女なのか──。


「どんなご令嬢なんですか」

 思わず青年は尋ねていた。


 すると、セドリックはとたんに表情を崩し、

「かわいいよ。灰緑色(かいりょくいろ)の大きな瞳に、焦茶色の髪、控えめな鼻。とにかくかわいい」

 そう言って、思わず顔を背けたくなるほどの甘い笑みを浮かべる。


 いったいどんな令嬢が、この男にこんな顔をさせるのか──。

 青年はますますその令嬢に興味を引かれる。


「──指輪に付ける宝石は?」

 青年は尋ねる。


 セドリックはすかさず、

「ダイヤモンドで。ああ、でも一粒でいい。派手なのは彼女向きじゃない」


 なるほど、と青年は頷く。

 となれば、絶世の美女というわけではないのかもしれないと思う。


「デザインのご要望は何かありますか?」

「そうだね、彼女はとても慎ましい女性だから、その彼女に似合うデザインにしてほしい」


 青年はあごに手を当て、しばらく考える。


 ふっと思い浮かんだものがあった。


 ──ピオニー(シャクヤク)だ。


 ピオニーは、みずみずしく上品で甘い香りはバラによく似ており、丸みのある花びらが愛らしく、古くから女性の美しさを象徴する花だ。


 このピオニーをモチーフにして、ダイヤモンドをカットするのはどうだろう──。


 ピオニーの花言葉は、『慎ましさ』。

 白色のピオニーの花言葉は、『しあわせな結婚』──。

 慎ましい女性の薬指を飾る指輪として、これ以上ないモチーフだ。


 次から次へと、新しいデザインが思い浮かぶ。


 青年は熱のこもった声で、

「──ピオニーをモチーフにするのは、いかがでしょうか」


 セドリックは、一呼吸置いたあとで、ふっと微笑んで、

「うん、いいね」

 と快諾する。


「では、デザインを考えてみます」

「ああ、頼むよ」


 青年は頭を下げると、すぐさま駆け出す。


 早急に紙と鉛筆が必要だった。


 ──早く店に戻らなければ!


 青年は、間もなく出航する商船に背を向け、アトリエを併設している自らの宝飾店へと急いで向かったのだった──。



ここまで閲覧・ブクマなどでご評価いただき、本当にありがとうございます!

初対面の翌日には、すでに婚約指輪を用意する周到さ……!本編の裏側エピソードでした。


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【改めてのお礼】

誤字脱字・内容重複の不具合(修正済み)をご報告くださり、本当にありがとうございました……!

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