後編
「あら、あんた何一人で笑ってるの」
戻ってきた母の声で我に返る。
「あ、お母さん。あのね、あそこのベンチに座ってる人いるでしょう?」
私がそう言うと、母も「どれ」と窓から顔を覗かせる。
「あそこって幽霊が出るっていう噂のベンチなんだけど、そんなことなんか知らないであそこで日向ぼっこしてるんだろうなって思ったら、なんか可笑しくて」
「へぇー。あのベンチに幽霊が出るの?母さん初めて聞いたわ」
「交通事故で、この病院に運ばれて亡くなった男の人の幽霊が出るっていう噂だよ」
私はそう言って一旦言葉を切り、妙なことに気づく。
「あれ?お母さん、この病院の幽霊の噂を聞いたことがあるんじゃなかったの?」
「うん、そうなんだけど、男の人だったかしら?母さんが聞いたのは女の子の話だったと思うけど……」
「女の子?」
母は頬に手を当てて、思い出そうとするかのように小首を傾げた。
「あ、そうそう。悪戯好きな女の子の幽霊が出るって聞いたような気がするわ。それに、あんな外のベンチじゃなくて、病院の中よ」
「へー。この病院ってそういう話が好きな人が多いのかしら」
大学病院のような大きな病院でもない限り、一つの病院に幾つも幽霊の噂があるなど、ますます信憑性に欠けるというものだ。
「母さんが聞いたのは、何年か前だからどうかしら。でも、あんたがこの手の話に食いつくなんて珍しいじゃない。まさか、怖くなっちゃった?」
夜中に目が覚めた時のことが頭に過った。豪快にサランラップが捲れていた紙皿の林檎は、何となく食べる気になれず、結局今朝捨ててしまったのだった。
「そんなわけないよ。そもそも幽霊なんていないんだから」
「お母さん、泊まってあげようか?」
「明日退院するのに、何言ってるのよ」
あからさまにからかう母を、私は軽くあしらう。
「ふふふ。冗談よ、もう」
そう言いながら、母は喉の奥を見せて高らかに笑った。
この日も、私は寝苦しくて真夜中に目覚めた。時計を見ると、午前二時前だった。
からからに渇いた喉を、冷たい飲み物で潤したい。
私は小銭入れを持って、そろりと病室を出た。暗い廊下を足音をたてないように静かに歩く。奥の方はナースステーションの灯りで少し明るくなっている。自動販売機があるところに行くには、ナースステーションの前を通らなければならない。
ナースステーションのカウンター前を通りかかると、すぐに中にいた看護師が気付いたようだ。
「下川さん、どうしました?」
声をかけてきたのは若い看護師だった。
「すいません、すごく喉が渇いちゃって。自動販売機で冷たいお茶を買おうと思ったんです」
「一人で大丈夫?付いていこうか?」
「大丈夫です。すぐ戻りますので」
自動販売機はここからそう遠くない場所に設置されている。それなのに看護師の心配する言葉が少々大袈裟だなどと思いながら、私は足早にナースステーションの前を通り過ぎた。
再び廊下は暗くなる。人気のない夜の病院の廊下を歩くのは、今まで何度かある入院生活の中でたまにあることだった。それは、大体は今と同じ理由だった。
いつも思うが、やはりこういうのはあまりいいものではない。
人気のない夜の病院は、どことなく得体の知れない雰囲気が漂い、同じ場所でも昼間とは全く異なる空気を醸し出している。その場所の一つが、丁度今行こうとしている自動販売機がある所だ。
自動販売機は暗い場所に浮かび上がるように佇んでおり、電気の通る音が不気味に響いていた。
私は小銭入れからお金を取り出し、自動販売機の投入口に入れた。目当てのところのボタンを押すと、下の取り出し口にペットボトルのお茶が勢い良くガタンと大きな音をたてて出てきた。
昼間と変わらないその音に微かな安堵を覚え、ペットボトルを取り出すと、私はすぐに今来た方向に踵を返した。
病室に戻り、早速お茶でごくごくと喉を潤す。冷たいお茶はみるみるうちに身体中に染み渡っていった。
ペットボトルのお茶を半分程残して蓋を閉め、私は身体を横たえる。
そしてどれくらい経っただろうか。私は妙な胸騒ぎに再び目覚めた。
半身を起こし、時計を見る。時計の針は午前二時半頃を指している。先程からそんなに時間は経っていない。
この胸騒ぎは一体何だろう。
私はベッドテーブルに手を伸ばした。だが、手を伸ばしたところにあるはずのペットボトルが無い。
「あれ?」
ベッドテーブルに視線を移すと、ペットボトルは手を伸ばした方向とは全く違う、ベッドテーブルの端の方に置かれていた。私は更に身体ごと手を伸ばしてペットボトルを手に取ろうとしたが、あることに気づく。
手を伸ばすだけで簡単にすぐ取れるように、間違いなく真ん中の辺りに置いたはずなのだ。それが、何故端の方にペットボトルがあるのだろう。
昨夜に引き続き奇妙な現象を目の当たりにしたことで、私の胸の鼓動が少しずつ新たなリズムを刻み始める。
不意に、誰かの視線を感じて顔を上げた。
「看護師さんですか?」
もしかしたら巡回にきた看護師がいるのかと思い、わざと声を大きめに出したが応答は無い。病室には自分以外誰もいない。
だが、誰かに見られているような気がする。
胸の鼓動が少しずつ大きくなっていく。奇妙な現象に身体中が強張り、目だけを動かして周囲を窺っていると、私の目はカーテンで止まった。
窓を隙間無く覆っているカーテンは外の街灯の灯りがぼんやりと透けている。
すると、突然雷に打たれたかのように私の脳裏に閃くものがあった。
この病院の幽霊の噂が真実であるならば、もしかしたら今、外のベンチには交通事故で亡くなった男の人の幽霊が座っているかもしれない。この胸騒ぎの答えはそれなのではないか。
そして誰かに見られているような感覚も、昨夜からの奇妙な現象も、私は何故か、もしかしたらそこに答えがあるのではないかと思ったのだ。
私はベッドを降り、窓に近づく。胸の鼓動が尋常じゃない音をたてており、今にも心臓が口から飛び出そうだ。私は何度も唾を呑み込み、カーテンの隙間を開けて恐る恐る外を覗いた。
だが、街灯横のベンチには幽霊の影も形も見当たらない。
いないとわかると、知らず知らず入っていた肩の力が抜けていくのがわかった。
幽霊などいないのに、自分は何て馬鹿なことを考えたんだろう。全ては気のせいなのだ。栞里から幽霊の噂など聞いてしまったものだから、きっと神経質になっているだけなのだ。昨夜からの奇妙な現象も、多分私が寝惚けていたのだ。それで説明はつくだろう。
「ふはは……」
気の抜けた笑いが私の口から漏れた。
幽霊など信じてない自分が、本当にいるのかどうかわからないものにこうして振り回されているのが、なんとも滑稽に思えたのだ。
気持ちを落ち着けて、ベッドに戻ろうと私は後ろを振り向いた。
そこには額がぱっくりと割れた若い男の霊が座っていた。割れ目からは中身が飛び出ているのが見える。やがて目玉がぼとっと落ち、身体中が徐々に腐り落ちていく。
私はそこから記憶が無い。だが、狂ったようなけたたましい女の子の甲高い笑い声がずっと聞こえていたのが、印象深く耳の奥に残っている。
気がつくと私は別の病室で寝かされており、酸素マスクやら点滴の管やらで繋がれ、重病人のような有り様になっていた。
聞いた話によると、私は何故か恐慌状態に陥り精神錯乱を起こしたらしい。更に、それが引き金となって喘息発作も誘発されたらしいのだ。そんな最悪な状態の中、ナースコールを押して命拾いしたというのだが、私は全く覚えていなかった。
おかげで翌日の退院はとりやめとなってしまった。
結局そのままその病室で数日を過ごして退院となるのだが、私はその間ずっと栞里のことを考えていた。
母が言っていた悪戯好きな女の子の霊とは、栞里のことだったのではないかと思うのだ。そう考えれば今まであったことの説明がつく。
私は栞里が自分と同じ入院患者で、元の病室の隣のベッドは彼女のベッドだと思っていたし、実際にそう見えていたと思うのだが、そう思っていたのはきっと私だけだったのだ。母のように、他の人には最初からきちんと空きベッドに見えていたのだろう。
母は栞里を知らないと言うし、看護師に訊いてもそんな子は知らないと言う。
ということはつまり、栞里という入院患者は存在しないのだ。
何よりもあの笑い声。何度思い出しても背筋が凍るあの笑い声は紛れもなく彼女のものだった。あの病室で起こったことは、全て彼女の悪戯だったのだ。
だが、あの病室で起こったことを私は何故か誰にも言おうとは思わなかった。
「あーやっと帰れる」
「お父さんが一階のロビーで退院手続きを済ませて待ってるわ。一時はどうなることかと思ったけど、退院できて良かったわね」
「うん。早く帰ってのんびりしたい」
母と談笑しながら歩いていると、元の病室の前を通りかかる。
昼間は大体どこの病室も扉を開けっ放しにしているのに、何故か元の病室だけ扉が閉ざされていた。中に患者がいる様子は無い。
私は病室の扉をちらりと横目で見ながら通り過ぎる。
その病室は、305号室。
その後、そこが再び病室として使われたかどうかは、私には知るよしもない。
END