前編
「ねぇ、歩実ちゃんは知ってる?この病院の噂」
私、下川歩実がこの病院に入院して、すぐに仲良くなった二人部屋で同室の彼女は、名を栞里といい、ある日彼女は何の脈絡もなくそんなことを言った。
窓際の私のベッドに二人並んで腰掛け、日頃の暇な入院生活を彼女とこうしてとりとめもないことを話すことで、気を紛らわせていたのだ。
面会時間が過ぎ、窓から見える空は今にも暗い夜の帳が降りようとしている。
「噂?」
まるで秘密を打ち明けるかのように、彼女は声を潜めた。
「この病院、出るんだって」
「出るって……何が」
彼女は勘の悪い私に呆れたような視線を向ける。
「ヤダ、出ると言ったら幽霊しかないでしょ」
「え~?ごめん。私、そういうの信じないことにしてるの」
興味すら無い。本当にいるのかいないのかよくわからないようなことよりも、他のことを考えていた方がずっと有意義で楽しいはずだからだ。
「そうなの?まぁ聞いてよ。前からそういう噂はちらほらあったみたいなのよ。でもね、最近になってまたちょっとした話題になってるんだって」
「ふ~ん」
幼い頃から患っている喘息が中学に上がった今になっても中々よくならず、主に喘息発作でこの病院には今まで何度か入院してる。幽霊の噂は耳にしたことはあったかもしれないが、私の記憶には残っていない。
「十年くらい前にね、この辺りで大きな交通事故があって、この病院に運ばれたんだって。それからすぐに亡くなった男の人の霊が出るっていう噂なの」
「へー」
彼女は少しだけ口を尖らせる。
「何、そのいかにも興味の無さそうな返事」
「だから、私はそういうのは信じないの!」
「あ、そう。まぁいいわ。本当のこと言うと、私も半信半疑なの」
そして彼女は突然ベッドを降りたかと思えば、見て。と窓の外を指差す。
「あの街灯の横にベンチがあるでしょう?夜中になると、あそこに出るっていう噂なの。男の人がずっと身動きもせずに座ってて、しばらくしたらすぅっと消えるんだって。でね、私、何度か夜中に起きて窓から恐る恐る覗いてみたことがあるんだけど、一度も見たことが無いのよ」
彼女はさも残念そうに肩をすくめる。
そんな彼女に私はきっぱりと一蹴する一言を投げた。
「じゃあ、きっといないのよ」
そう。幽霊などいないのだ。
栞里はそれから二日後に退院していった。
私も検査の結果次第で、近々退院することが出来るはずだ。
「お母さん、先生、いつ退院出来るって?」
私は見舞いに来ている母に尋ねた。
「様子見て、早くて明後日って言ってたわよ」
ベッドの横のパイプ椅子に座り、林檎の皮を剥きながら母は答える。
「昨日ね、栞里ちゃんが急に退院していったの。私が検査で病室にいない間に行っちゃったみたい。栞里ちゃんて何の病気だったんだろうね」
母は林檎の皮を剥く手を止めて私に視線を移す。
「栞里ちゃん?」
「うん、隣のベッドにいた子だよ。私が検査から戻った時にはもういなかったの。退院するなんて言ってなかったからびっくりしちゃった。せっかく仲良くなったんだから連絡先くらい訊きたかったのに」
母は心なしか怪訝な顔になる。
「何言ってるの。隣のベッドはあんたが入院した時から空いてたわよ」
「え?そんなわけ……」
よくよく考えてみると、母と栞里は顔を合わせたことが無いかもしれないことに思い当たった。母が来るのは面会時間だけ。それも、夕飯時には帰ってしまう。栞里は母が来る面会時間になると、病室からふらりとどこかへ出ていくことが多かった。
「……そっか」
頭に浮かんだことを説明するのが何故か億劫に思えて、私はそれ以上そのことについて考えるのを放棄した。
「ねぇお母さん。お母さんはさ、この病院の噂、知ってる?」
「噂?何の噂?」
母は林檎を切る手を止めずに訊き返す。
「この病院ね、幽霊が出るんだって」
「あぁ、だいぶ前だけど聞いたことがあるわ。でも、あんたはそういうの興味無いから平気でしょ。林檎、ここに置いとくわよ」
「あ、うん」
ベッドテーブルに林檎が乗った紙皿が置かれる。
「じゃあ、買い物して御飯の支度をしなきゃならないから母さんはもう帰るわ」
果物ナイフを片付けて母は帰り支度を始めた。
「また明日ね。もし苦しくなったら、ちゃんとナースコール押すのよ?」
「うん、わかってる」
じゃあね。と言い、母は帰っていった。
その日の真夜中、私はフッと目覚めた。
ベッドサイドの置き時計の針は午前二時半頃を指していた。
喉の渇きを覚えた私は、ゆっくりと身体を起こし、湯呑みに残っていたお茶をぐいっと飲み干す。
今夜はなんだか妙に寝苦しい。だが、喉を潤したことで胸の辺りがすっきりとし、私は再び眠りにつこうと身体を横たえようとした。
「あれ?」
ベッドテーブルに置かれている林檎の紙皿を見ると、上に掛けていたサランラップが豪快に捲れている。
明日の朝に食べようと、三切れ残してサランラップを掛けて置いておいたのだ。それが、何故今こうなっているのだろう。
私はとりあえずサランラップを掛け直す。
そう言えば、と私は栞里が言っていた幽霊の噂を思い出した。彼女の話が本当なら、外にあるあのベンチにはもしかしたら今幽霊がいるかもしれない。
僅かに興味を引かれた私は窓に目を向けたが、窓は隙間無くカーテンで覆われており、カーテンを通して街灯の灯りがぼんやりと透けているのが見えるだけだ。
だが、わざわざベッドを降りて外を覗く程には至らず、私は再び身体を横たえて瞬く間に深い眠りに落ちていった。
翌日の午後。医師による回診があり、明日の午後に退院が決まった。
医師と看護師が病室から出ていくと、私は思いっきり身体を伸ばし、そのままベッドの上にぽすんと仰向けに倒れた。
「あーやっと帰れる」
母はそんな私を横目にクスクスと笑う。
「そうね。母さんちょっとお父さんに電話してくるわね」
「うん」
病室から出ていく母を見送ると、私は仰向けのままごろんと横に転がり、窓から見える空を眺めた。天気の良い夏らしい青空を、白い雲がゆったりと流れていく。
身体を起こし、私はベッドを降りて窓に近づいた。ふと視線を下げると、街灯とベンチが目に飛び込んでくる。ベンチには老人が一人座っており、どうやら日向ぼっこをしているようだ。
昼間は何の変哲もない只のベンチが、夜には幽霊の噂の舞台になっているとはおそらく知るよしもないだろう。
そんなことはどこ吹く風というように、ベンチでのんびりしている老人を見て、思わずふふっと笑いが込み上げる。
緩む口元をそのままに、母が戻ってくるまでの間、私は無心でここからの景色を眺め続けた。




