畿内三好家出会い編 用語辞典 4/2追加 4/4加筆修正
ここまでは用語辞典を作ろう。
ある程度分かる説明を入れておかないとこのあたり分からないし。
守護大名
幕府役職で朝廷の国司とは別なので注意。
元々鎌倉幕府というか武家政権はいかに朝廷の支配から脱却するかという所から始まっており、公家や寺社が所有する荘園に介入がしにくいという欠点があった。
そのため、地方の荘園同士の争いは京での裁可を仰ぐ前に武力でという流れから、武士の誕生の源流になる。
源平合戦に勝利した源頼朝とその後を継いだ鎌倉幕府はこれを忘れていなかった。
鎌倉幕府の事を『行政府』では無く『立法・司法機関』と称した説はあながち間違いではなく、これらの争いの仲裁と仲裁に用いる法の制定こそ鎌倉幕府の根幹となっている。
という前提が無いと、この守護というものが理解できない。
鎌倉幕府が朝廷から権力を簒奪した結果、全国規模での地方の訴訟に追われる事になり、その仲裁および介入が国司だとできない欠陥が露呈したのである。
国司だと荘園に介入しにくく、公家や寺社から荘園を奪った武士達は武装しているからだ。
その為に、鎌倉幕府は武家のロジックとして荘園に介入できる機関を新たに作らないといけなくなる。
それが守護と地頭である。
地頭はその荘園の現地代行者を幕府が保証するというロジックであり、荘園そのものは公家や寺社の物なのは変わっていない。
だが、地頭任命権は幕府が握っており、その現地代行者(もちろん武士だ)が何か問題を起こした場合は、幕府に文句を言えというロジックだ。
源平合戦から承久の乱を経て武力を奪われた公家や寺社は、この幕府に直接文句が言えなくなり武士の荘園簒奪の基本となる。
で、守護だが、これはその国の軍事・警察権を幕府から代行して執行する事が求められた。
要するに、地頭が支配する荘園間のトラブル(もちろん双方武士だ)における合戦阻止とトラブル仲裁が彼らの仕事であり、この時点ではまだ国司の権限を犯していないので注意。
まぁ、時が経つにつれて軍事・警察権を握っている守護が強大化するのだが。
元寇による北条得宗家支配の強化と皇統継承の争いから発生した元弘の乱によって鎌倉幕府が倒れ建武の新政が始まると、この守護・地頭がまっさきに槍玉にあげられ、足利尊氏の蜂起と室町幕府成立に繋がってゆく。
室町幕府を支持し擁護したのは彼ら守護大名達で、それは室町幕府が守護大名達の連立政権であるという事も暗に示していた。
そのため、室町幕府はいかに守護大名の力を削るかに努力を注ぎ、守護大名たちも時に幕府に立ち向かい、時に幕府に協力しを繰り返した成れの果てが応仁の乱から始まる戦国時代と言えよう。
管領
元々は家の執事や家宰の事を指す。
それがどうして幕府役職になったかと言うと、出さざるを得なかったという言い方の方が正しい。
武家政権のロジックの大前提だが、
『武士は源頼朝の家来』
という幻想がある。
事実武家政権成立の立役者で、朝廷から武士を開放してくれた英雄だからこそ、その幻想は武士の誰も否定できない。
よって、
『征夷大将軍を中心とした武士達の運命共同体』
として『武家』という大きな『家』の成立こそ、彼の成し得た最大の成果なのだ。
で、その大きな『武家』の執事職にどれだけの権限が集中したかというと……言わなくても分かるだろう。
一番最初の執事職を得たのは執権の北条氏。
彼らが権力を握ると今度はその北条家の家臣の執事である内管領達が権力を握る。
日本の権力構造は基本No2が全てを差配するから、表に出る=No1になるので置物化が始まってしまうのだ。
それでも彼らが出てきたのは南北朝最大のワケワカメ事件である観応の擾乱のせいである。
この騒動で室町幕府の権力は壮絶に弱体化し、守護大名の力無くしては成り立たない事を否応なく思い知った二代将軍足利義詮(まだ若武者だった)は、彼ら守護大名と話ができる身内の重臣を公職化させる事で乗り切ったのである。
それが管領であり、『天下を管領する』という意味である。
……wikiだと観応の擾乱で幕府権力が確立したとか書いてあるけど、将軍権力が形骸化するだろ。これ……
こんな流れで作られた管領は、守護大名達と共に新しい武家の幻想である足利尊氏の影が色濃かった事もあって、なんとか幕府側勝利という所に落ち着かせる事に成功する。
だが、その勝利の代償は果てしなく大きかった。
三代将軍足利義満が見たものは、
将軍を無視できる権限を持つ『管領』。
数ヶ国を持ち、自分たちが室町幕府を作り守ったと自負している『守護大名』。
だったのである。
これで室町幕府全盛期を作り上げた足利義満もまた化物チートだったという事なのだろうが。
長々と語ったが、こういう歴史があるから将軍と管領の仲が良い訳がなく、将軍が強ければ管領が陰に霞み、管領が力を持てば将軍が姿を消しというのが室町幕府の基本となる。
細川家 家紋 二つ引両
管領は幕府要職だからこそ、外様に任せられない。
そのため、足利一門の中から格の高い家を選んで、その家からしか出さないようにした。
それが斯波家・細川家・畠山家の三家で、この三家の事を『三管』と呼ぶ事もある。
だが、室町幕府が時と共に内紛と守護大名同士の対立から発火した応仁の乱が勃発した時、斯波家と畠山家は分裂し、東軍総大将だった細川家は分裂しなかった事で細川家は乱の後の畿内政局を一気に掌握する事に成功する。
上の管領で書いたが、将軍にとっての悪夢は将軍を無視できる権限を持つ『管領』と数ヶ国を持ち自分たちが室町幕府を作ったと自負している『守護大名』の二つだが、応仁の乱あたりの細川家はこの両方の地位を持つ悪魔合体のラスボスみたいな存在だったのである。
ちなみにこの時の細川家の領国は、
摂津・丹波・土佐・和泉・備中・讃岐・阿波・淡路・三河
と九カ国にのぼり、細川政権と書かれる事もある。
特に瀬戸内海と畿内に領国が固まっていた事で畿内政局に介入しやすく、応仁の乱の後も管領の権限と複数国から得られる兵力で畿内政局をリードしていた細川政権崩壊のきっかけは、案の定お家争いだった。
細川宗家、京兆家というのだがその京兆家当主細川政元が暗殺。
彼には子供が居らず--奇人変人の上に魔法使い(童貞ではなくガチの方)なんて面白おかしく語られている--複数の養子による後継者争いが勃発。
これに近隣大名から摂関家と将軍家に宗教勢力まで絡む大乱『両細川の乱』となってその勢力は衰退。
この乱の果てに出てきたのが、細川家家臣の一人だった三好長慶だった。
三好家 家紋 三階菱に五つ釘抜
三好家の歴史は古く信濃国小笠原家の出なのだが、承久の乱で得た功績で阿波国守護となりその一族が土着化した事から始まっている。
その後阿波国は管領細川家一族の領国となり、応仁の乱では京に出陣するなど後々の畿内出兵の経験値を溜めてゆく。
本格的に三好家が畿内政局に関わりだしたのは、三好之長からの代からである。
彼が結構な野心家というかヒャッハーさんで、土一揆扇動したり一緒に土蔵を襲って質物を奪ったりというおちゃめな逸話が残っている。
そんな彼だからこそ時流は分かっていたらしく、阿波細川家から細川京兆家にさらりと転職して陪臣から直臣に成り上がった時に永正の錯乱が勃発。
京兆家当主細川政元暗殺に際して、細川澄元と共に11代将軍足利義澄を擁立して権勢を掌握。
この時、京兆家当主となった細川澄元より三好之長は政治を委任されたが、二人の仲はあまり良くはなく軋轢がたびたび起こっている。
だが、ここで明応の政変で将軍を追われた10代将軍足利義稙が大内義興の兵を借りて将軍位の奪還に動き、細川政元の養子の一人だった細川高国もこれに呼応。
細川澄元と三好之長は阿波に逃げる事になった。
その後本国が大友家や少弐家や尼子家に脅かされるようになった大内義興が帰国すると、チャンスとばかりに畿内に上陸。
数度の戦いに勝利し京を奪回したまでは良かったが、細川高国が六角定頼や朝倉家・土岐家・蒲生家等の手をかりた反撃に勝てずに敗死。
彼と組んでいた細川澄元も病で亡くなり、その後は細川晴元が継ぐことになる。
さて、三好之長の後を継いだのは三好元長で、彼は三好之長の孫に当たる。
細川高国政権が内部粛清等で弱体化したのを察して阿波国で蜂起。
その旗頭が細川晴元である。
決起後勝利と敗北を繰り返しながらも細川高国から政権を奪還。
その細川高国も大物崩れの戦いにて首を落とし、細川晴元政権確立の立役者として権勢を握ったかに見えた。
ここでお約束の内部対立が発火してしまう。
この両細川の乱は細川家家督争いの他に将軍家の家督争いも深く絡んでおり、その処理をめぐって細川晴元と三好元長が対立。
その対立を煽ったのが希代のトリックスター、マジモンの乱世の奸雄こと木沢長政である。
三好元長は彼の排除を狙い、それは成功したかに見えたが、ここで一向宗が木沢長政側にて参戦。
理由は三好元長が一向宗と敵対する法華宗の庇護者だったからである。
総勢十万を超えると呼ばれる一向一揆に三好軍は敗北し、三好元長は切腹。
細川晴元と木沢長政の勝利のよう見えたが、今度はその威力を見せつけた一向一揆に脅威を覚えてその始末に、法華宗を使うという節操の無さ。
もちろん法華宗への大義名分は、
「法華宗の擁護者だった三好元長を討った一向一揆を討て」
である。
これに呼応した法華一揆は近江国守護大名六角家等と呼応して一向一揆の掃討に成功。
一向宗の本拠山科本願寺を焼き討ちにする等の大戦果をあげる。
この山科本願寺が落ちたために一向宗が新たな本拠として根を降ろしたのが石山本願寺である。
で、今度は法華一揆の勢いに驚異を覚え延暦寺僧兵と六角家の兵を用いて法華衆を掃討。
この兵火で上京の全域、下京の三分の一が焼けたという甚大な被害をもたらす事になった。
で、三好家に話を戻すが、三好元長の長子が三好長慶である。
父三好元長が討死にした時年は10歳だったのだが、その翌年には木沢長政の仲介で石山本願寺と細川晴元の和議を斡旋し、細川晴元の家臣として帰参している。
その実務として三好長慶の代わりに動いたのが右筆松永久秀。
その後、彼は三好義賢、安宅冬康、十河一存、野口冬長ら優秀な兄弟達に四国と淡路を守らせ、自身は摂津国越水城を拠点に勢力を拡大。
一族の裏切り者で父の仇である三好政長や、木沢長政等を討ち、父を見捨てた細川晴元を追うと、気づいてみたら天下人になっていた。
そして、傀儡を認めたくない将軍足利義輝との果てしない足の引っ張りあいが始まり、三好家は他の家と同じくお家争いの果てに分裂滅亡の道をたどるかに思えた。
畠山家 家紋 二つ引両
元々は坂東八平氏の流れを組む家で源平合戦で多大な功績をあげた一族だったのだが、鎌倉幕府成立後の御家人同士の闘いに敗れて滅亡。
その名跡を惜しまれて、足利家の庶長子である足利義純が継いで、足利一門として生きる事になる。
足利一門の家臣筋分家の中で斯波家に次いで高い序列に列せられ、細川家など他の家臣筋分家とは異なる待遇を足利宗家から受け、紀伊国・河内国・越中国の守護を務め、分家が能登国守護を務めた。
南北朝時代に入ると畠山家は宗家が没落。
奥州にて国人衆として生きる事になり、畠山国清の家系が畠山家の惣領格となり金吾家および河内畠山家と呼ばれるようになる。
この『金吾』は衛門府の唐名で代々衛門督や衛門佐に任じられたためで、紀伊国および和泉国の守護を務め、後に河内国の守護にも任命された。
領国が畿内に固まっていた事もあって、畠山家も畿内政局に関与し続け、斯波家・細川家と共に管領を務める『三管』の一家となって幕府を支えるのだが、斯波家と同じ時期にお家争いを起こし応仁の乱の一因となってしまう。
ここで金吾家は分裂し、西軍の畠山義就側は官途の上総介から総州家、東軍の畠山政長は官途の尾張守から尾州家を名乗る。
ややこしーんだよ。本当にお前ら……
で、この二家は本国である河内を巡って争い続けたというか、応仁の乱が終わっても争い続け、その後の畿内政局の火種になり続けた。
管領細川政元によるクーデターである明応の政変時には、畠山義就の息子畠山義豊が細川政元と組んで畠山政長を討ち家中がまとまるかに見えたが、政長の子である畠山尚順はこれに抵抗し畠山義豊が討ち死に。
こんな感じでだらだらと争い続けたのは、畿内のど真ん中である河内国・紀伊国の守護で大和国や和泉国の国人衆に影響力を持っていたからで、将軍家だけでなく、細川家や畿内に上陸した大内家、三好家などが介入しつづけたからだ。
その結果、大名の影響力が弱くなり重臣が実力者として合戦や政局を動かすようになってゆく下剋上が発生。
稀代のトリックスター木沢長政はこの畠山家で燦然と輝くことになる。
そんな彼を討ち畿内の天下人となった三好長慶に対して反三好連合軍が組まれることになったが、その旗印として担がれたのが尾州家の当主畠山高政。
重臣達から権力を奪還した戦国大名である。
堺
言わずと知れた東洋のベニスこと瀬戸内海交易路の終点の一つ。
瀬戸内流通路の終点は本来は神戸こと大輪田泊なのだが、堺の発展は東国からの船の終点(堺-紀伊-伊勢湾-太平洋-関東)というルートによって繁栄する。
そして、応仁の乱をはじめとする戦乱で大輪田泊が焼けた事による避難先の一つが堺であり、ここから堺の飛躍が始まることになる。
堺と切っても離せないのが鉄砲で、これは種子島からの鉄砲伝来が太平洋を伝わって広まり、その太平洋航路の終点の一つだった堺で生産と売買が広がったのはある意味当然だった。
町衆の自治はこれらの経済力に傭兵を雇う事で成り立っていた。
そんな傭兵の供給源が雑賀衆と根来衆であり、彼らが鉄砲傭兵集団である事が更に自治都市堺のステータスを高めることになる。
このような場所だからこそ、戦国時代には多くの大名たちが堺を狙うが、ある者は銭で縛られ、ある者は武力で諦め、ある者は物流を止められてそれを諦めざるを得なかった。
堺も堺で中立ゆえのメリットを理解してそれを提示し、互いにWINWINの関係を築こうとしていたのだが、そんなもの武家は本来許せるわけがなかったのだ。
だって、見方を変えるならば、この堺は銭を生み出す『荘園』に等しかったのだから。
だからこそ、それを理解していた織田信長は堺の中立を真っ先に引っ剥がし、その後を継いだ豊臣秀吉によって自治都市堺はその歴史を終えることになる。
だからさぁ……(目を覆う)
松永久秀の動きについては完全に創作ではあるが、登用時期から考えるとあってもありかなと思っている。
しかし木沢長政のトリックスターぶりは知れば知るほど面白くてたまらない。
4/4 読者の指摘で畠山家を追加