佐田岬半島攻防戦 その5
朝。天候は澄むような青空が広がる晴れ。
さすがにこういう時なので早く寝て目を覚ますと、長崎城全体から上がる炊飯の煙と良い匂いに腹の虫が鳴る。
「おはよう。八郎。
少し待って。
食事持ってくるから」
「ああ。
合戦前に温かい飯が食べられるのはありがたいな」
陣城に滞在している毛利軍はこのあたり不便のはずだ。
撤退時に井戸に死体や汚物を入れて使えなくするなんて事はよくある事で、水の確保が対陣における勝敗を決めるなんて事も良くあるのだ。
おそらく撤退時に使えないようにしていってるだろうから、戦のあとの再建はかなり時間がかかるだろう。
とはいえ、干飯や兵糧丸あたりを用意しているだろうから、飢えるとは思っていない。
「八郎。
ご飯持ってきたわよ」
有明が俺のお膳を運んでくる。
座る前に長崎城から外を見ると、御陣女郎達が握り飯や水筒を尾根の陣に運んでゆくのが見えた。
「お。
なかなか豪勢な食事じゃないか」
「これで合戦がなければ良かったんだけどね」
普通の大将ならもう動いて色々としているだろうが、俺はそのあたりを全部大鶴宗秋に投げている。
それを見ていた有明も御陣女郎達はお蝶や果心達にまかせる事にしたらしい。
おかげで、場違いなぐらいのんびりと食事の時間がとれる。
「焼き鯛にアワビの干物。
飯は唐芋と雑穀の味噌粥に香の物か」
「しいたけも入っていい味になっているわよ」
長崎城主の得能通明が気をきかせて握り飯ではなく粥にして暖かい食事を用意させたらしい。
食べる前にいつもの毒味である。
「毒味するね。
おいしい♪」
井筒女之助がお膳の食事をひとつまみずつ食べる。
実に幸せそうな顔で食べるから、この後合戦があるというのを忘れそうになる。
「そういえば、毛利の間者達襲ってこなかったな」
手を合わせて食事を取る最中、男の娘の顔を見てふと気になった事を尋ねてみる。
男の娘は握り飯を食べながら俺の問いに答えた。
「毛利の間者と言えども伊予国全域に間者をばらまいているから、こっちに回す手が足りないんだよ」
男の娘の説明をまとめると、毛利軍の将である杉原盛重はその配下に忍者を含む大量の間者組織を抱えているが、俺だけに貼り付ける訳にはいかなかったらしい。
まず、杉原盛重が最重要で警戒していたのは、予州河野家。
俺達との合戦中にクーデターで河野家内部がひっくり返されたらたまらないからだ。
おまけに、予州河野家の領地を預かる石川道清が三好家準一門待遇なので、三好家経由で伊賀とか甲賀とかの忍者を雇っていたらしい。
東予方面は静かなようで水面下は激しい鍔競り合いが発生していたという訳だ。
話をそらすが、ここで毛利家を背景に予州河野家を粛清すると、河野家の家臣団が一気に崩壊する。
従属し主君に毛利の血が流れているとは言え、彼ら河野家の家臣の主君は河野通直であり、毛利元就ではないからだ。
そして、そんな家臣たちの不満をある種代弁していたのが予州河野家で、細川管領家や三好家等畿内権力と繋がっており権威もあるこの家が従っているからこそ、今の河野家はまとまっていられるのだ。
河野家を滅ぼして毛利家の領地に組み込む戦力も時間も毛利元就には残されていない。
「次に毛利の間者が動いているのって長宗我部家なんだよ」
男の娘の言葉に俺は首を傾げたが、説明を聞くと納得する事情があった。
毛利元就は長宗我部元親を寝返らせようと企んでいたのだ。
寝返りが無理ならばせめて敵対的中立をという訳で、長宗我部元親がよこした文にあった浮穴郡の領有を認めるうんぬんの話はこれに繋がっている。
で、この手の交渉に電話やネット等無い戦国時代は、手紙になるがそれを運ぶのに時間がかかる。
おまけに山ばかりの四国の山中を秘密裏に突破しないといけないのだから、ある意味忍者達にとって正しい仕事場とも言えよう。
「最後にご主人の所になるのだけど、果心さんや僕や石川五右衛門を相手にしないといけない。
消耗するのがわかっているから、派手に間者をばら撒け無いんだよ」
確定で敵対する俺の所は情報収集と破壊工作がメインになるが、派手に動けばこちらの果心や井筒女之助や石川五右衛門に悟られる。
岸和田時代に派手に殺りやっているから、ここで消耗させると他に使っている忍者達を引っこ抜かないといけない。
とどめに、俺の所に送られた間者達は俺の動き以外の任務で忙殺されていた。
「大内殿の行方を探して、八幡浜から宇和島から土佐国宿毛まで散って探しているみたいだよ。
大変だねぇ」
完全に他人事なので男の娘が笑い飛ばすが、俺の切り札かつ鬼札である大内義胤の暗殺を毛利忍者達は命じられていたらしい。
俺自身は完全な警護がついているので手を出さず、彼が俺の所から離れる際に襲撃し殺す段取りだったという。
それはこっちも分かっていて、ひたすら俺の近くに置いてガードさせていた。
「後は戦場でのどさくさに紛れてご主人を討つぐらいだけど、今回の戦については安心していいよ。
僕や果心さんや上泉様が居るし、何より里が小さすぎて余所者が入る余地がないもの。ここ」
間者は他所からやってくる訳だが、里全員が身内という感じの小さな里ほどこの手が使えない。
この長崎城がある九町はまさにそんな里だった。
陣太鼓や鐘の音が聞こえる。
敵が接近してきた証だ。
「始まったな」
「そろそろ鎧をつけないと」
有明が鎧を持ってこさせようとしたので俺がそれを手で制す。
「いらん。
今回はやばくなったら船で逃げる事になっている。
だったら鎧をつけると溺れる」
長崎城前の入り江には末次船が一隻待機していて、危なくなったらこれで脱出する事になっている。
とはいえ、桟橋など無いので小船で接近するか、最悪泳ぐ事になる。
俺の拒否に有明はあっさりと鎧をつけさせるのを諦めて言う。
「じゃあ、私もいいわ」
「今回ばかりはそっちの方が生き延びれるかも知れんぞ。
泳げるか?」
当たり前だが、服を着て泳ぐと普通は溺れる。
こういう時は裸に近い方が泳ぐ際には助かるのだ。
泳げたらの話だか。
「まさか」
「今度皆で海に行こう。
泳ぎを教えてやる」
互いに軽口を叩きながら、男の娘も入れた三人で物見台を上る。
戦場が一望できるそこから、毛利軍の先陣が見える。
「申し上げます!
敵先陣は宇都宮房綱との事!!
他に西園寺家の旗を確認!」
「尾根の柳生様より伝令!
毛利の大船団が北の海より西へ向かっています!!」
旧領回復を餌にここで使い捨てても良い死兵を投入してきたか。毛利軍は。
離れた所で整然としている毛利軍の本陣らしき隊を眺める。
なんとなくだが、向こうもこっちを見ているような気がした。
「ご主人!
そろそろ危ないから城に戻ろうよ!!」
井筒女之助が俺の着物を引っ張ったと同時に法螺貝が鳴り、ときの声が轟く。
「弓構えい!」
「鉄砲隊!放てい!!」
「敵勢発砲!!!」
轟音が蒼天に轟き、赤き血が澄んだ海に流れてゆく。
こうして、合戦は始まった。
合戦そのものは実にシンプルな戦いだった。
接近してきた毛利軍に対して、こちら側が矢や鉄砲を放ち、毛利軍が応戦。
この飛び道具の戦いが終ると接近戦に移るのだが、今回はその終わりが訪れない。
「畜生!
足にひっかかった……うわっ!!」
「この掘越えられない訳じゃないのがま…ぐえっ!」
尾根側は結んだ草に足をとられ転ぶ兵が続出。
斜面だから転べば下に落ちてゆく訳で、それが隊列を崩し時間を稼ぐ。
掘の存在は障害物では無く、その掘を目安に弓鉄砲を狙うという目標の為。
水軍衆が停泊できる港を戦場に選んだ利点がここできいてくる。
彼ら水軍衆の鉄砲や焙烙火矢の火薬を流用して撃っているのだ。
その為、この規模の合戦の割にこちらの射撃が衰えない。
さらに弓鉄砲だけでなく、高所の利点を用いて毛利軍の隊列にある物が投げ込まれる。
「何じゃこれは……油っ!?」
かつて久米田合戦でやった油による鉄砲封じだが、今回は違う。
水軍衆から降ろした焙烙火矢が毛利軍の隊列に打ち込まれ、彼らが炎に焼かれ更に隊列が乱れる。
それでも毛利軍の進軍は止まらない。
「盾を並べよ!
こちらも撃ち返せ!!」
「尾根の敵を潰せ!
あれが邪魔で進撃ができん!!」
毛利軍の動きはこちらの想定する展開になる。
尾根の陣地の攻撃に集中しだしたのだ。
だが、少数しか展開できない戦場だと個々の武勇が物を言う。
そういう最強の駒が尾根に鎮座していた。
「柳生宗厳。
ここを通りたくば、この剣崩してみよ!」
ああいう戦場での剣豪の輝くことと言ったら。
毛利軍は尾根の陣地攻撃に手こずり、こちらはまだ崩れては居ない。
「申し上げます!
中尾城に忽那通著率いる毛利軍襲来!
敵勢は城を囲むと同時にこちらに向かってきております!!」
「大鶴宗秋に伝えよ!
背後の敵は、あれを使って押さえよと!」
背後から現れた毛利軍の軍勢は船から降りた水軍衆の兵で数は数百。
この戦場では勝敗に直結する数で、それを防げるかどうかが勝負の分かれ目となる。
これを防ぐための予備投入に俺は最強の駒を送る。
「……まだまだ未熟。
これだけの数を相手に、喜ぶ己がいるとは……」
剣聖上泉信綱。
一対一を極めた戦国きっての個人最強を相手にするには、洋上戦闘を中心にしていた水軍衆には荷が重かった。
剣聖の剣戟に数人が倒れ、その衝撃に怯む毛利軍に彼が率いた水軍衆たちが襲い掛かる。
三崎で待機していた法華津前延の水軍衆の兵三百で、三崎の守備に四百、中尾城の後詰に二宮新助の兵に三百の水軍衆を足した四百の兵を送り出していた。
毛利水軍が豊後水道にこないと確信できたからこその兵力転用。
これが無かったら、毛利軍の背後の攻撃にこちらの陣は崩壊させられていただろう。
「申し上げます!
東の方で戦の煙らしきものが!!」
物見台に登っていた兵が降りてきて俺たちに別の場所での合戦を告げる。
こっちで決戦が行われているのは分かっていた。
それを挟むために一万田鑑実が飯森城跡に滞在する毛利軍に攻撃を仕掛けたのだろう。
運が良ければ飯森城跡の毛利軍を撃破した後で、背後から挟める可能性がある。
それを許す小早川隆景では無いだろうが。
「尾根と城の近くはどうなっている?」
「はっ。
佐伯様の伝令の話では、未だ毛利の攻撃の手は衰えておりません!」
状況が把握できるのは俺が防御側で城内から指揮しているからで、毛利軍は船で送り出した部隊がどうなっているか分からない。
そして、彼らの背後からの奇襲を成功させる為にも正面の攻撃は更に激しく行われていた。
「上泉様の手勢!
毛利軍を崩したとの事!!」
「そのままこっちに戻らず、尾根の後詰に向かうように伝えよ!」
俺の前で大鶴宗秋が矢継ぎ早に命を出している。
こういう時の俺の仕事は、負けを認めて兵を退くか、追撃時にどこまで追撃するかぐらいしかない。
「尾根の攻撃さらに激しく!
後詰をお願いします!」
地の利を取っていながらここまで苦戦しているのは、いくつかの理由がある。
攻撃正面を担当している毛利軍が旧西園寺家・宇都宮家残党で構成されて地の利を知り、死兵となって襲ってきている事。
こちらの兵が地元民の雑兵や合戦に強くない水軍衆が多い事。
対処しているが、中尾城からの上陸攻撃でこちらの指揮が飽和しつつあった事があげられよう。
大鶴宗秋を責める訳にはいかない。
小早川隆景が凄すぎるのだ。
大鶴宗秋がこちらを振り向く。
やむなしという顔からから出たのは、張子の虎の使用許可だった。
「殿。
どうか御陣女郎達を使わせて頂きたい。
前に立たせることはいたしませぬから」
戦場ど真ん中でまとまって浮いた兵が彼女たちしか残っていなかった。
そして、尾根の攻防戦は未だ予断を許さない。
俺は有明の方を一度見て、その提案を承諾した。
「構わん。
使え」
「ありがたき幸せ!
得能通明に命じて百の兵を尾根側に向かわせろ!
お蝶様にお願いして城の空いた所に御陣女郎達を立たせて弩を撃たせておけ!!
当たらずとも近寄らせなければ十分だ!!」
あまりに小さな、それゆえに見えてしまう戦場の現実。
それでも勝たねば、生きなければ全てが失われるこの喪失感に俺は有明の手を強く握る。
にも関わらず状況は徐々に悪化しつつあった。
「小野様より伝令!
城前の敵勢、今だ戦意盛んなり!
敵本陣が前進中!!」
彼の伝令の意図は明確だ。
やばいので逃げろと言っているのだ。
敵の狙いはこれだ。
こちらの指揮飽和を突いて、一気に正面を突破するつもりなのだろう。
こちらの手持ちの予備はもう無い。
毛利軍はこちらが背後と尾根の防衛に気をとられているのを見て、一気に城正面を抜く腹か。
「八郎……」
有明が心配そうに俺を見つける。
逃げるなら今だ。
だが、大将の逃亡は士気を致命的なまでに低下させる。
再起はできる。
だが、今戦っている将兵全てを見殺しにする事になる。
「殿。
必要でしたら、お逃げになる事も大事ですぞ。
生き延びで仇を討ってくれるのでしたら、ここの将兵皆ここで屍になりましょうとも!!」
察した大鶴宗秋が決断を迫る。
勝てるのか?
負けるのか?
逃げるのか?
死ぬのか?
まだ運命は決まっていない。
そして、俺は未だ有明の手を握っている事に気づいた。
「残ろう。
まだ策はある。
その策に全てを賭けるさ」
「……八郎ってこういう時何も考えずに全賭けするのね?」
呆れた有明の笑顔を見て俺もすっと肩の力が抜けてゆくのが分かる。
勝利を信じないと、自分を信じないと、まず戦場では生き残れない。
そして、俺は運命の女神の前髪を掴み取る。
「お味方だ!
西よりお味方の船団が見えるぞ!!」
その声に俺達は慌てて城の外に出る。
その船団の帆に堂々と描かれているのは大友家の杏葉紋。
待ち望んだ後詰である。
「味方だ!
味方の船が来たぞ!!」
「天は大友に味方したぞ!
船からお味方が出てくるまでもう一踏ん張りだ!!
行けい!!!」
味方到着の報告に湧き上がる大友軍に対して、露骨に士気が下がる毛利軍。
大友軍はこのチャンスを逃さぬと一気に攻勢に出る。
そして、背後の決着がついた。
「中尾城に上陸した毛利軍!
兵を乗せて撤退してゆきます!!」
「上泉隊の横槍で、毛利軍が崩れてゆきます!」
そして、毛利軍はついに攻勢を中止し、撤退に入る。
それでも小早川隆景は殿をつとめ、こちらが追撃を食らわそうとしたら逆襲する体制のまま整然と退いてゆく。
ただし東では無く北東へ。
おそらくは、飯森城跡の合戦で毛利軍が負けた時に備えて、中尾城を攻めた船団で撤退するつもりなのだろう。
さすが名将。
退路の確保までしっかりしてやがる。
「殿。
お味方が到着したのだから、今こそ追撃を!!」
俺の前にやってきた小野鎮幸が追撃を主張するが、俺は笑いながら種明かしをする。
「よせ。
今だからいえるが、あの船、八幡浜に停泊していたうちの船だよ。
つまり空舟だ」
少人数の戦場における一番の衝撃は、自分達以上の兵が後詰に来ること以外あり得ない。
佐田岬半島という寡兵同士がぶつかる戦場でどうやって大兵を演出するかがこの戦いの最大のポイントだった。
そして、何も知らない地元民の士気を上げ、それが他の兵に波及するような仕掛けがこの大船団である。
乗ってきた弁才船三隻・末次船三隻・ジャンク船四隻に法華津前延の所から呼んだ弁才船五隻を八幡浜に送り、大回りさせて西からここにやって来させ、豊後からの後詰と錯覚させる。
絶句する小野鎮幸に俺は楽しそうに笑いながら話を続ける。
少なくとも、危機は脱した。
それが確信できたからだ。
「味方の後詰は嘘ではないぞ。
三崎の水軍衆を陸に挙げて使ったからな。
背後で暴れていた毛利軍が逃げ出したのは、その後詰のせいだ」
「では何で味方をたばかるような事を?」
騙されて腹が立っているのか、追撃できないから腹が立っているのか分からない小野鎮幸に俺はさらに続きを説明する。
はなから戦国最強の一人である小早川隆景相手にまともに戦う気なんて無かったなんて内心を隠しながら。
「実際、それでこちらの士気は上がり、毛利の士気は下がったじゃないか。
はったりだが、そのはったりが欲しかったんだよ」
ぺたんと俺は力なく地面に座る。
今更ながら恐怖がやってきたらしい。
「おそらく、小早川隆景は十中八九、こっちのはったりに気づいていたさ。
だが、彼の切り札は水軍衆による背後からの奇襲で背後を崩してからの正面突破で、水軍衆の兵は船での戦いの為防具を基本つけられない。
だから、上泉信綱の後詰に散らされ、正規兵が来るだろうと勘違いした後詰に撤退したのさ」
己の手を見る。
震えが止まらない。
なれるようなものでもないし、なれたら人として何か駄目なような気がした。
「小早川隆景は名将さ。
だからこそ、あの偽りの後詰でこちらの士気が上がり、背後の奇襲が失敗したのを察した。
お前が示唆してくれたように、あのまま強攻していたら、城は落ちて俺の首は取れたかもしれん。
だが、名将ゆえに彼の目の片方は常に南を向いていたという訳だ」
南。つまり八幡浜の一万田鑑実の部隊だ。
強攻して俺の首を取る。
代わりに消耗した部隊で復讐に燃える一万田鑑実の隊と戦うリスクはどれぐらいと判断していたかは俺にはわからない。
だが、ここで毛利軍が消耗した場合、最終的には伊予は失われる。
長宗我部家と予州河野家が連合を組んで河野家内部でクーデターを起こされたら防ぐ戦力が無くなるからだ。
伊予の失落より、河野家を失う方が毛利家には痛い。
今だ独自の距離感で毛利と付き合っている村上水軍を掣肘できなくなるからだ。
俺と相打ちで小早川隆景自身が死ぬ場合、瀬戸内方面の将が居なくなるだけでなく、大友家との決戦である九州での戦いでの司令官が居なくなる。
吉川元春は今だ出雲で尼子家と争い、毛利元就の寿命はわずか、周防長門に大内家残党という爆弾を抱え込んでいるので当主毛利義元の出陣は怖くてできない。
「小早川隆景は名将だよ。
だから、兵を退いた」
俺は再度その言葉を繰り返す。
彼が名将だからこそ、その名将であるという信頼に賭けた。
俺の首を取りに来ていたからこそ、その首と釣り合うものを秤の向こう側に乗せたのだ。
毛利元就死後に柱石として支えなければならない小早川隆景の首と、毛利家の生命線とも言える瀬戸内水軍という錘を。
「殿のはったりに気づいて再度攻めてきませんか?」
「それは無いだろうよ。
この時点で中尾城の兵が使える。
無理をすれば戦えるが、さっきの戦いで兵の練度はほぼバレただろう。
勝ちで緩んだ今、追撃をして逆襲されて兵を失うのが一番やっちゃいけないことなんだよ」
改めて城内を見渡す。
勝った勝ったと喜ぶ兵より生きている事に放心する雑兵と、俺と同じように座り込んだ御陣女郎達の姿が見える。
とてもこれで統制の取れた追撃ができるとは思えなかった。
「張子の虎で生き残った。
今はそれに満足するべきさ」
俺は小野鎮幸に断言した後でいたずらっぽく笑う。
あくまでこの戦いは前哨戦である。
消耗し、消耗し、消耗しきった毛利軍を九州の地にて決戦に誘い込む為の。
その大合戦は大友家と毛利家の決戦になるだろう。
「本番は九州だ。
それまでに兵を整えておけ。
井筒女之助。
ひとっ走り頼む。
飯森城跡を攻めている大友軍に『これ以上の追撃は不要。八幡浜に退け』と伝えてくれ」
「はーい♪」
だって、戦術的にしのぎきった時点で、俺の戦略的勝利は確定しているのだから。
その結果は翌日に現れる。
明確に脅威が無くなった事を確認した府内は佐伯水軍と若林水軍の出動を命じ、南予に後詰を送り込んだからである。
それを見越した毛利軍はその前の夜に飯森城跡より後退。
喜木津より船で撤退していった。
「おお。
懐かしい顔が居るな。
息災か」
「八郎様もお変わりないようで」
八幡浜に上陸した大友軍の後詰を俺は出迎える。
やってきたのは、博多に居た為に助かった日田親永だった。
彼と立花家の旧臣は領地を失ったが、臼杵家と違って大友宗家に対して独立傾向が強かった為に府内にて冷遇されていたのである。
そんな彼らを使い潰……もとい俺への後詰に送る事で俺への約束を守るあたり府内のお歴々は決して愚かではない。
だが、長く博多近くを統治していた事もあってその富は未だ健在で、彼が連れている兵は二百人はいるようだった。
「お久しぶりでございます。
お屋形様より、『大内殿はたしかに受け取った』とのお言葉を頂いております」
続いて俺に挨拶をしたのは田原成親で、彼の言葉の通り大内義胤をこの戦いの最中に送っていた。
長崎城に後詰に来た時の、『難破した船から助けたお坊と従者』がそれだ。
お坊は伝林坊頼慶で護衛として、大内義胤はその従者に化けさせたのだ。
この時代、まさかお坊の方が従者の護衛であるとは見抜けないとは言い切れないが、その為に二手三手と手を打った。
長崎城と中尾城の後詰で毛利水軍が後退し、俺の存在で毛利の視線が俺に集中する。
その間に、制海権が確保されている佐田岬半島宇和海側を小舟で三崎まで突っ走り、合戦時には小早船一隻で豊後水道を突っ切って佐賀関へ。
あとはそのまま府内まで一直線で、受取を確認した府内は待機していた後詰という不良債権を俺に送りつけたという訳だ。
「お前も大変だな。
父親が寵臣だから下手に功績が立てられなくて」
「おまけに誰かの近習をしていたので、私自身も睨まれておりますからな。
同じく、睨まれて出陣が難しい御方をお連れしました」
田原成親の紹介で一人の武将が前に出る。
よく見ると顔貌がなんとなく似ているなと思ったら、案の定血が繋がっていた。
「奈多政基と申します。
この度、父奈多鑑基が亡くなって奈多の家を継ぐ事になり申した。
奈多家郎党、およそ五百名。
八郎様のお好きなようにお使いくだされ」
うん。
これ以上正室奈多夫人の実家で他紋衆でもある奈多家の地位が上がるのは困るって訳だ。
最後の貧乏くじを引いた男は、伊予くんだりまで流された不満をゴマすりの仮面でごまかしながら俺に媚を売る。
「野津院衆の柴田紹安と申します。
兵三百を率いて参陣いたしました!
此度は御曹司の戦勝まことにめでたく……」
その巧言令色を同じく笑顔で聞き流しながら、己自身に言葉を漏らす。
誰に漏らす訳でもない己の素直な感想を。
(勝ったというよりも……)
戦国最強の一角の将の猛攻を凌いだのにその喜びは無い。
ただ疲労感のみが残り、更に超える山の高さに頭を抱えるのを我慢して。
(……負けなかったに過ぎんよ……)
佐田岬半島攻防戦
大友軍 総大将 大友鎮成
大鶴宗秋 小野鎮幸 佐伯鎮忠 柳生宗厳 上泉信綱 得能通明 有明
毛利軍 総大将 小早川隆景
宇都宮房綱 忽那通著 他
兵力
大友軍 二千六百
毛利軍 二千数百
損害 (死者・負傷者・行方不明者含む)
大友軍 二百
毛利軍 数百
討死 なし
筆が乗ったここまでは一気に書きたかった。
とりあえず少し休む予定。