肥前大乱 その6
肥前国北部に標高1000メートル程度の山々が連なる山地がある。
その山地の名前を三瀬山地という。
その山地の主だった神代家というのは竜造寺家との因縁多き家でもあった。
元々は筑後国一宮である高良大社に関係のある一族で、少弐家の有力家臣である千葉家に庇護されて筑前国に移住し土着する。
そんな神代家と竜造寺家の因縁は、馬場頼周の讒言を受けた少弐冬尚が竜造寺一族を粛清した事から始まる。
その実行部隊に参加していたのが神代長良の父親である神代勝利である。
お家滅亡を免れた竜造寺家が仇の一人である神代家を放置する訳が無かった。
竜造寺家と神代家は数度の合戦だけでなく、刺客を放っての暗殺まで狙うという何でもアリアリの抗争を展開。
手を焼いた竜造寺隆信から神代勝利へ和議の申し込みがあり和議成立。
その直後、神代勝利は嫡男である神代長良に家督を譲って隠居したのち死去。
問題はここからだ。
竜造寺隆信から弔問の使者が送られ、これまで通り違心のない旨の誓紙が渡されたわずか数刻後には竜造寺隆信の命を受けた納富信景に攻められて、命辛々筑前に逃げ延びたという。
なお、和議条件に神代勝利の孫娘と竜造寺隆信の三男の婚約が決められた事も補足しておこう。
つまり、お互い親族扱いでこれである。
成り行きで聞く羽目になった俺はドン引き。
さすがにこれを放置するには後味が悪すぎる。
そして、神代長良が現在お世話になっている原田親種がまた問題だった。
彼を弾劾して彼を攻めようと立花鑑載は狙っていたのだから。
「うん。無理だ」
「御曹司。
何をおっしゃっているので?」
「こっちの話さ」
適当に神代長良を煙に巻きながら、今まで考えていた肥前情勢の沈静化案を放棄する。
今までの俺たちが後手後手に回っているのは、状況に振り回されているからだ。
事、ここに至って、状況のコントロールを放棄する。
行く所までいった上で、ダメージを軽減した方が対処は楽なのだ。
「で、具体的に何をして欲しい?」
人間ふっきれると笑顔になるものだ。
さっきと違って良い笑顔で尋ねる俺に神代長良はやや引き気味に要求を告げる。
「山内に帰れば、郎党も集まってきましょう。
御曹司にお願いしたいのは、帰る時に兵をお借りしたく」
ただ戻るのと、兵を連れて戻るのでは残った連中のインパクトが違う。
ある程度の兵を引き連れる事ができれば、地の利がある神代長良にも勝利の目が出てくる。
「三百程度ならば出そう。
ただし、神代殿には原田殿への検使を引き受けていただきたい」
原田親種の件は神代長良にぶん投げることにする。
神代長良からこちらの状況を把握するだろうから、何だかの手打ちはしてくるだろう。
してこなかった時の事までは知らぬ。
「検使?」
神代長良の問いかけにこちら側の事情を全部ぶっちゃける。
神代長良が来なかったら原田親種攻めが発生していたという事実に彼の顔に冷や汗が浮かぶ。
「つまり、原田殿に何かしらの含みを持たせろと?」
「そうだ。
とりあえず俺の所に顔を出して詫びを入れてくれ。
あとはこっちで押さえる」
「承知致しました」
とにかく時間が惜しい。
神代長良が去った後で俺は立花鑑載に許斐岳城の復興後の譲渡の提案を書状に書く。
原田親種攻めの代案だが本題は肥前にある事から神代長良を検使に任命し、原田親種に詫びを入れさせることで手打ちにすることも一緒に書いておく。
不満はあっただろうが日田親永に書状をもたせた事が効いたのか、その日の夜に『賛同する』という立花鑑載の書状を手にすることができた。
翌日。
「松浦の争いの詳細が分かりました。
まだ激しく争っています」
平戸松浦家と相神浦松浦家の宗家争いは有馬家と竜造寺家の介入を経てもまだ決着がついていなかった。
少弐政興が唐津入りした事で北にも戦線ができた竜造寺家が手を引いたのと、対馬宗家による少弐家支援によって玄界灘の制海権は少弐家が握っていた事。
そして、検使として動き出した俺の視線を気にしだした事が大きいのだろう。
「此度は御曹司のご不興を買ってしまいまことに申し訳なく……
親族からの助けを求める声を無碍にできず……」
翌日。
事態のヤバさに気づいた原田親種が神代長良と共に少数の手勢のみで博多にやってきて俺の前で頭を下げる。
日田親永を立花家の代理みたいな形にして、立花家もこの謝罪を受け入れる姿勢を確保しておくのも忘れない。
「頭を上げよ。
この手の義理人情を無くして、家を守れる訳もなし。
骨を折った神代殿に感謝するのだな」
「はっ」
後で聞いたが、原田親種も神代長良帰還の為に手勢を数百ほど出すらしい。
多胡辰敬率いる手勢を加えておよそ千近くまで膨らんだ神代勢が山内で蜂起するのはそれから四日後の事である。
状況のコントロールを諦めたので、肥前の展開は俺の手を離れてどんどん加速してゆく。
神代長良の旧領帰還と蜂起は竜造寺家にとって予想外だったらしく、置いてあった兵は少なくほぼ無傷に近いかたちで旧領に返り咲くことができた。
竜造寺家はその気になれば数千の兵を展開できるが、筑前・筑後に隣接する大友勢力圏内で高橋鑑種主体に数千の兵が国境で待機している状況で全力を振り向けるわけにはいかない。
そして、勝ち切れない竜造寺勢を見て、有馬・大村連合軍は城を堅く守って備えている。
一時は降伏論も出たらしいが、俺の速い動きにワンチャンあると踏んだらしい。
松浦は泥沼の内戦中だが、有馬・大村・竜造寺の三家の介入が弱まったので、合戦では無く暗闘に舞台が変わっている。
そして、少弐家はクーデターで奪いとった波多家に地盤を築く間に時間がかかる。
最低限だが、肥前にある程度の膠着状態がやっとできあがった。
それを俺は待っていたのだ。
「肥前諸侯に告げる。
此度の騒乱に関して、大友宰相様は肥前に守護代を置くことを決められた。
この守護代は地元の国衆の推挙によって、お屋形様がお認めになるという形を取る。
肥前の旗頭にふさわしいと思う者の名をあげよ。
そして、新たな守護代の最初の仕事は、この肥前の騒乱の裁定となる」
肥前守護代任命という切り札をここで使う。
これではっきりと肥前の国衆は色分けされるだろう。
この時点で守護代につける資格があるのは二人しか居ない。
竜造寺隆信か少弐政興だ。
戦力は竜造寺家優位だが、少弐は大友の支援が期待できる。
つまり、どちらかを決める場合、最低でも一回は合戦をしなければならない。
そういう風に持って行ったつもりだった。
最悪、今山合戦を覚悟もした。
だから、失敗した。
読み誤った、国人衆たちの強かさを。
「肥前国衆一同は、竜造寺隆信殿を肥前守護代に推挙します」
肥前守護代任命という切り札使用から数日後。
肥前国人衆代表という形で博多にやってきた有馬義貞の一言に俺は耳を疑う。
表面上はおちついたように見せかけつつ、俺はゆっくりと声を絞り出す。
「竜造寺殿を肥前守護代にか。
それで間違いはないのか?」
「はっ。
父はごねましたが、火遊びはこれで手仕舞いにと」
迂闊だった。
有馬家の拡張政策を主導していたのは有馬晴純で、その息子有馬義貞はその路線に乗り気でなかったのを把握していなかったのだ。
多分、丹坂峠合戦の大敗あたりから路線変更を模索していたのだろう。
「有馬修理大夫殿は?」
「父上は病床にて。
会うことを楽しみにしておりましたが、動くことができず……」
本当に病気かどうかはこの際問題では無い。
敗北にも関わらず、有馬家は最も高値で竜造寺家に己を売ったのだ。
反竜造寺同盟の中心である有馬家の実質的降伏。
見事にそれで有馬家は家を守ることができるだろう。
「そ……そうか。
いずれ正式に府内より使者が参ろう。
今度は、竜造寺家の臣と共に会うことになろうな」
疲れた声で俺が言うと、有馬義貞はあっさりと俺に止めの一言を言ってのけたのである。
見事なまでに完敗を告げる一言を。
「でしょうな。
ちと早いとは思いますが、肥前守護代様の命にて波多家の謀反に介入しております故。
その時は逆賊の首を持ってまいりましょうて」
その後について軽く語ろう。
最後まで揉めに揉めた松浦家は竜造寺家が支援していた平戸松浦家が勝ち、有馬家が支援していた相神浦松浦家の降伏という形で幕を閉じた。
その後相神浦松浦家を継いだのは、竜造寺隆信の三男だという。
有馬家から来た養子に一城を与えつつ相神浦松浦家当主は隠居という政治的ウルトラCをかましてこの問題を解決した時、俺の開いた口は塞がらなかった。
有馬家と大村家はかなりの領地を失ったが、生き残ることができた。
なお、有馬晴純の病死報告も届けられている。
本当に病死なのかものすごく怪しいが、主戦論者というレッテルを張られて肥前の覇者を目指した英傑は舞台から去った。
残った二家だが、もとより南蛮貿易で栄える家で領地についてはさほど心配は無い。
だが、彼らはいくら栄えても国人衆の立場から出ることが難しくなってしまった。
失った物も残した物も大きいがその評価は先にならないとわからないだろう。
で、波多家だ。
波多家の内紛で意気揚々と肥前の地を踏んだ少弐政興だが、有馬・大村・松浦と片付いた以上竜造寺家が躊躇う訳がなかった。
有馬家の降伏と松浦家の内紛終結によって、有馬家から来た波多藤童丸を竜造寺家が助けることが何の問題も無くなった事に少弐政興達は気づくのが遅れた。
それが全てを分けた。
実家である草野家に波多藤童丸と共に避難していた真芳の要請に答える形で、鍋島信生率いる数千の兵が波多領内に乱入。
その兵を押し戻す力を少弐政興も松浦鎮も鶴田家と日高家も持っていなかった。
一月ほどの攻防によって岸岳城は落城。
彼らは結局歴史の闇に消える。
荒れ果てた壱岐だが、この地を抑えたのは対馬の宗家。
竜造寺家の権勢は上がれど、まだ玄界灘の水軍衆を従わせるには時間が足りず、宙に浮いたこの地をおいしく食べる事ができたという訳だ。
圧巻だったのが神代家だ。
これら一連の動きにおいて、竜造寺家は神代家に一切手を出さなかった。
だが、己の領地の奪還だけを考えていた神代家でもそれ以上の動きも見せなかったのである。
他所で忙しい竜造寺家はそんな神代家に手を出さず、婚約の話も破棄されたというのに神代家も山を降りて戦をするつもりも無く、守護代推挙と少弐家滅亡の後に守護代の命に従うという形で神代家が折れて事が治まったのである。
後に聞いたが、背振の山々にこの取引がなされた時、勝利を祝うノーヤ節が山々に聞こえたという。
「♪おどま山からじゃっけんノーヤ、お言葉も知らぬヨウ、あとでご評判なたのみます……」
ここが開戦すればまだ打つ手はあった。
だが、竜造寺隆信は最後の介入口である神代問題に一切手をつけなかった事で、守護代としての格を見せたのだ。
それを尊重する義務が大友家にはあった。
神代長良は俺の関与に礼を述べて何かあったら手を貸すと言ってくれたが、それは今山フラグなので勘弁してくれなんて言える訳もなく。
竜造寺隆信だけでなく原田親種の監視を頼んで貸し借りなしという事にした。
保険はかけていたし、今山フラグは一応回避した。
だが、速く来て、博多で必死に介入を模索して、なおこのザマである。
俺の完敗だった。
Q 何、このご都合主義
A 史実はもっとご都合主義
またも史実に敗北するorz