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225 倭国の残照

 大伴部博麻おおともべはかまが661年の百済を救う役に出陣したときに、筑紫君薩野馬(さつやま)が出陣したという記録は残されていない。しかし筑紫の君が捕虜になっていた時、博麻も捕虜になっていた事は前記の記事で明らかである。薩野馬はその姓から考えると、筑紫の君磐井の子孫の有力豪族であり、筑紫の国の造であった可能性が高い。

 602年に新羅追討の将軍久米王子(聖徳太子の弟)は神部かんとも・国造・伴造・軍兵二万五千を率いて出立した。神部とは神職のことで、軍事担当者でないから、諸国の造が自国の兵を、それぞれ率いた混成軍が武力の主体であった。筑紫の国も部隊を編成して、共同軍に加わったものとみえる。博麻は、前記した書紀の文中で出身が筑紫の八女郡であることが示されている。筑紫の八女郡と言えば、かの磐井の墳墓があり、かっては筑紫の国の都であったところである。これから推測できることは博麻は筑紫君薩野馬の率いる部隊の従者ではなかったと言うことである。従者であるゆえに、後日、自分の身を売って、主君につくしたと言うことではないだろうか。

 この筑紫の国というのは、筆者が考えるに、ご承知のように倭国の残照である。かっては大王と呼ばれた家の係累である。書紀が描くところでは、薩野馬を帰国させなければならない理由を唐の状況を伝えるためとしているが、なんだかあやふやな理由である。薩野馬ら四人が帰らねばならなかった理由とは、各自が日本の重臣で、捕らえられている状況に耐えられなかったと言うことに尽きるのではあるまいか。

 まして、輝かしい伝統の倭国王ともいうべき筑紫君薩野馬の捕虜状態は正常ではない。それゆえ、唐国に補足されていた数多くの家臣は、薩野馬の帰国のために尽力したというのが、この条の実情であったと思える。

 このように、わざわざ取るに足らない、筑紫の一兵士の事を書紀が取り上げるのは、書紀執筆者の意志あってのことである。書紀は前王朝としての倭国を封印する使命を担っているが、主執筆者である太安万侶おおのやすまろには、おのれの出自である、筑紫倭国に光を当てたい強烈な気持ちがあったのである。



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