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223 百済から脱出した人々への救済

 九月七日 百済の州柔つぬ城がこうして始めて唐の軍門に下った。この時に、百済国の人々は口々に言った。「州柔城が落ちた。なんともしがたい。百済の名は今日に絶えた。墓参りに行くこともできなくなるだろう。今はただ弖礼城てれさしに行き、日本の将に会って、今後のことを相談するのみだ」

 そして遂に、枕服岐城しんぷくぎさし(未詳)にいる妻、子供に、国を去る気持ちを伝えた。臣、兵は州柔つぬを出て、十一日、牟弖むて(港の名である)より出航し、十三日弖礼(てれ)に着いた。二十四日に日本の兵と百済の将と兵と民は翌日、日本に向けて出帆した。


 天智三年(664年)三月、百済王は善光ぜんこうに代わり、日本は善光を難波に滞在せしめた。(筆者註・百済はもはやなく、善光は元王子という立場であったと思われる。この記事は後の書き換えとも考えられている)


 この年に対馬・壱岐・筑紫の国などに防人さきもりと、のろし台を置いた。また筑紫に大池の為の堤を築き水を蓄えさせた。(筆者註・大和朝廷は唐・新羅の海を越えての侵略の恐れに始めて直面したわけである。それゆえの防衛拠点の設置なのである)


 天智四年(665年)二月 百済より避難した百済の臣の為に、百済の官位順を日本の官位に適合させ与える事を行った。百済位、佐平を日本の錦位に、達卒をせん位に対比させた。百済の功臣でありながら殺害された佐平福信の功を以て、福信の子であろう鬼室集斯きしつしゅうし小錦下しょうきんげという前年施行された和朝官位二十六階の十二位を授けた。(筆者註・この記事は驚くべきである。百済国臣の優遇は大変なものである。まさに日、韓国の朝廷の融合ともいうべきものであった!)また、百済の民男女四百人余りを近江の国の神前郡かみさきのこおりに住まわせた。


 三月 神前郡の百済人に田を与えた。


 九月二十三日 唐の国より総数二百五十四人の使節団がやって来て、七月二十八日に対馬に至った。九月二十日に筑紫に着いた。二十二日に文奉る。


 


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