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222 倭兵、白江の海で滅亡す

 天智天皇二年(663年)八月十三日 百済王がおのれの良き将を斬ったと言うことを新羅が聞いて、すぐに百済に進入して、まず州柔つむの城を落とそうと計った。百済王は新羅の謀る事を知って諸将に語った。

「今聞くに、大和の国の救いの将廬原君臣(いおはらのきみおみ)が屈強の兵、一万あまりを率いて海を越えてやって来るであろう。もろもろの将軍達は、あらかじめそれを考慮に入れよ。私は自ら出かけて白村江はくすきのえ(韓半島西岸中央部の錦江の河口あたり熊津江とも言うから百済の王都の河口である)にて日本の軍を待つであろう」


 八月十七日 敵将の率いる軍がやって来て州柔つむに至って(筆者註・陸路であろうか?北から唐・新羅合同軍、東から新羅軍か)王城を囲んだ。海からは唐の軍船が百七十隻やって来て白村江に連なった。


 八月二十七日 日本の先陣の船と唐の船が戦った。日本は負けて退いた。


 八月二十八日 日本の諸将と百済の王は状況を見ないで、お互いに語って言う。

「我らが先を争って出撃するならば、敵は敗退するに違いない」と。日本の水軍は、すでに敗れた中軍の残った船も率いて、唐の軍船が固く守る水面に突入した。唐軍の船は進入してくる日本戦を左右から挟んで囲んだから、たちまち日本軍は敗れてしまった。日本の兵は水に落ちて溺死する者が多かった。船は密集して方向転換することもできなかった。日本の将の田来津たくつは天をあおいで激闘を誓い、歯をくいしばって奮闘し敵兵数十人を殺したが、ついに戦死してしまった。。百済王豊璋(ほうしょう)は数人と船に乗って、高句麗に逃げ去った。


 この時のことを「旧唐書・劉仁軌りゅじんき伝」は以下のように記している。


 仁軌じんきは倭兵と白江はっこうの口で遭遇し、四度戦って勝利した。倭の舟四百艘が焼けた。煙と炎は天に充満し、海水はすべて赤く染まった。賊衆(倭兵)は大敗北して終わった。


 この倭の敗亡の原因の一つとして、唐が大型艦船百七十隻を擁すのにたいして、倭の水軍は舟四百艘(旧唐書にはこう記すが、三国史記・羅紀文武王十一年・西暦671年・七月二十六日条には千艘とある)と数だけは多いのだが、小舟に過ぎなかったという事が挙げられている。




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