221 百済、完全滅亡への道
天智二年二月二日、百済は日本に達卒金受(達卒は官位十六位の二位)らを遣わして調(筆者註・貢ぎでなく納税といった意味あいがある)を奉った。新羅は百済の南の外れの四つの州を焼いた。(筆者註・新羅から取り返した地域だろう)あわせて、百済五地域の徳安を占領した。(筆者註・三国史記の新羅本紀文武王三年はこの年にあたるが、新羅は百済の四城を落とした。とある。これによって考えると百済王城が落とされてなお、百済は新羅との戦闘を続行している様子が見てとれる) 避城は、新羅から近く、それがために、そこにいることはできなくなって、すなわち元の都、州柔に戻った。これは以前、日本の臣の田来津が言った通りの事となった。
三月 日本は前将軍として上毛野君推子・間人連大蓋、中将軍として巨勢神前臣訳語・三輪君根麻呂、後将軍として阿倍引田臣比羅夫・大宅臣鎌柄を遣して兵、二万七千人を率いて 新羅を討たせんとした。
五月 犬上の君(犬上御田鍬は推古二十三年、《615年》新興唐より帰朝。舒明二年《630年》八月の第一回遣唐使となり、同四年八月帰国した。近江国犬上郡の豪族。御田鍬が遣唐使として派遣されてからおよそ三十年後の事であるから、その息子または親璋族であると思われる)が、高句麗に急いで行き、日本が、新羅に対して出兵した事を告げて帰ってきた。途中、石城(忠清南道扶余)で百済王豊璋に会った時に、王は功臣の福信に罪があると述べたと云う。
六月 前将軍上毛野君稚子ら、新羅の紗鼻岐奴江(未詳)の二つの城を取った。
百済の王、豊璋は、福信が謀反の心を持っていると疑って、手のひらに穴を開け革を通して縛った。王にはどう処分したらよいか良いか解らなかった。つまりは諸臣に訊ねた。
「福信の罪は明らかであるが、斬るべきであるか、なかろうか」達卒の徳執得(他史料に見えず)が言った。「この悪人を捨て置いて許してはなりません」福信は執得に唾を吐きかけ言った。「この腐れ犬の気違い野郎!」王は屈強な者を呼び出して福信の首を切り、さらし首にするために、首を酢漬けにした。
、