220 百済 完全滅亡への道
天智天皇元年(662年)五月 日本の大将軍大錦中阿曇比羅夫連《おおいくさのきみだいきんちゅうあづみのひらふのむらじ》ら、船軍百七十隻を率いて百済に行く。先に送った王子豊璋と、比羅夫将軍が参列して就任式を開き、天皇の宣勅(言葉)を受けて、百済王の位を継がさせた。また、金策(金泥で書いた書)を百済再興を計る筆頭である福信に与え、褒めてその背をなでてねぎらい、爵位と俸禄を贈った。この百済、再興の式典に、豊璋と福信は平伏して承り、人々は涙を流したという。
六月二十八日 百済は日本に達卒(百済官位十六位の二位)万智を遣わして、調(納税品)と貢ぎを献上する。
十二月 百済の王、豊璋と臣の福信らは日本の狭井連朴市田久津と議して言った。
「この都の洲柔(卒城)は、田畑にはるかに遠く、土地は痩せている。農・桑作の地ではない。ここにしばらくいるならば、民は餓えるに違いない。今は避城(洲柔の南方)に移るべきだ。避城は西北に新坪川が流れ、東南にため池の堤があり、一面の田があり、雨水は溝を流れ花咲き実の育つ地は三韓の上等地だ。衣食の源あるところは人の住むべき所だ。平地ではあるが、ここに住まないという事はない」と。
これに対して朴市田久津は一人前に進んで言った。「避城と敵のあるところは、一夜で行けます。近いこと甚だしいものがあります。もし敵の攻撃などという不慮の事があれば、悔いても及ばないでありましょう。餓える事などは後で考えることで、滅ばないことを優先すべきではありませんか。今、敵がやたらに攻めてこないのは山の険しさを前に置いて、防御に適しているからです。山が険しく、谷が狭ければ、守りやすく、攻めにくいのです。平地におれば、何によって固く守って揺るぐことなく、今日に至ることができたでしょうか」
しかし、王はその諫めを聞かず、避城を都としてしまった。