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219 高句麗へ日本の援軍

 斉明さいめい天皇が亡くなられたので、中大兄皇子なかのおおえのおうじは無地の麻の白服を着て称制しょうせい(天皇不在のまま、皇太子などが政治を司る事)した。(筆者註・中大兄皇子は斉明天皇が亡くなって以降七年に渡って皇太子のまま国の代表として政治を司った。この背景には、斉明天皇の先代の孝徳こうとく天皇の皇后であった、同じ母の妹、《つまり実妹》間人皇女はしひとのひめみこ|と不倫関係があった事が原因として横たわっていると云われている)


 この月に唐の将軍と突厥とつけつ(トルコ系遊牧民の国)の王子契苾加力(けいひつかりき)等が、水陸二路より至り、高句麗の首都平壌を囲む。


 十二月 高句麗が云う。(原典は、日本世記と見られる)「この十二月、高句麗は寒いこと極まって河が凍りました。そのため大河で食い止められていた唐と突厥とつけつの合同軍は敵の様子をのぞき見る雲車たかぐるま、城門を突き破る衝車つきぐるま、物見やぐらのある楼車ろうしゃを小太鼓、鐘を慣らしながら併走させて進軍渡河させました。それであっても高句麗の兵は勇敢でありましたから唐軍の陣地を二カ所占拠しました。あとに陣地二カ所が残りました。この陣地の者達は夜に出撃して奪回しようと計っていましたが、あまりの寒さに兵達は膝を抱えて泣き、戦意をなくし、再び高句麗の城を攻め取ることはできませんでした」


 日本世記筆者の道顕どうけんが云うには、金春秋(後の新羅武烈王)の本意は高句麗を撃つことにあったが、まず百済を討った。というのもこの近年新羅は百済に侵略されることが多く苦しんでいたからであるという。(筆者註・従ってまず百済が高句麗より先に落とされたのだと言っている。今度はいよいよ高句麗を落とす本番なのであると言うこと)


 天智天皇元年三月 唐、新羅の軍が高句麗を討った。高句麗は日本に救いを求めた。それで日本は軍将を遣わして百済遺臣の本拠地となっている䟽留城そるさしを守らせた。これによって唐軍は、その城の領域である南の境を攻められず、新羅軍は西の境を攻めることができなかった。


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