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216 百済奪回の作戦

 斉明天皇七年(661年)一月六日 斉明天皇の船は西に向かって、始めて海路についた。八日、船は大伯おおくの海(現在・岡山県邑久(おおく)小豆島北方)に至った。この時、大田姫皇女おおたひめみこ(中大兄皇子の娘・大海人皇子《後の天武天皇》の妃)が女の子を産んだ。生まれた場所にちなんで大伯皇女おおくのひめみこと名付けた。十四日に船は伊予の熱田津にぎたづ石湯行宮いわゆのかりみや《現・道後温泉》に泊まった。三月二十五日船は本来の航路に戻って、(筆者註・斉明天皇は一月十四日から三月二十五日まで、およそ二ヶ月半道後温泉にとどまった。百済奪還の緊急時に、こうしたのんびりとした行程をとったのは後日、天皇が亡くなることから推測すると天皇が病を得て、しばらく静養せざるを得なかったと思える)そして那大津なのおおつ(現・博多港)に至り、磐瀬行宮いわせのかりみや(現・福岡市三宅か)に滞在された。

 

 四月天皇は朝倉宮(現・福岡県朝倉市・博多より30㎞東の内陸部にあり、天皇は唐・新羅の来襲を想定して内陸部に移動したと考えられている)に移られた。

 

 七月二十四日 斉明天皇は朝倉宮で亡くなられた。皇太子中大兄皇子は長津宮ながつのみや(現・博多大津)に移って来られた。そこで海外に向けての水軍のはかりごとを聞かれた。


 八月 前軍の将軍として 阿積比羅夫連あづみのひらふのむらじ河辺百枝臣かわべのももえのおみ、後軍の将軍として阿倍引田比羅夫臣あべのひきたのひらふのおみ物部連熊もののべのむらじくま守君大石もりのきみおおいわ等を遣わして百済を救わせた。


 九月 皇太子中大兄王子は長津宮におられて、百済の王子豊璋(ほうしょう)に位階の冠を授けた。また多臣蒋敷おおのおみこもしき(太安万侶の祖父という)の妹を妻とした。(筆者註・つまり、古事記編纂者といわれる太安万侶の祖母とも言える人が百済王の室になっているとは、驚きである。これによれば安万呂の族は非常に高貴な血筋であったと思われる。太安万侶は多氏であり、これは又、王氏の意味を持っている。多氏は神武天皇の御子である神八井身耳命かむやいみみのみことの後裔であるといい、いわゆる皇室から別れた氏族である皇別の氏族のなかでも別格の重要な氏族である。神八井身耳命かむやいみみのみことを租とする氏族としては筑紫の火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家つくしみやけ《三家あるわけではない、おそらく筑紫宮家=筑紫本家=元倭国王家といった意味が含まれる氏族ではあるまいか》の連のほか多くの国造の氏族がある。梅原猛氏は著書「神々の流鼠るざん」の中で多氏は帰化人と関係を持つ氏族と書いているが、私は、多氏は倭国の王、磐井の血筋ではあるまいかと考えている。それゆえ九州を中心とした造に多氏は着任しているのではなかろうか。そういう風に考えると、日本書紀の不思議な叙述の謎が氷解する。古事記の前文は実は太安万侶の名を残すべく多氏のだれかによって追加されたものであって、まさか正史である書紀に前文を載せるわけにもいかないので、古事記に記載したという事情ではなかろうか。太安万侶は実は書紀の主力の執筆者であった可能性が強い。とすれば、安万呂こそは筑紫倭国の存在を暗示するという危険な行為の当事者であると推測できまいか)


 こうして、日本の臣と兵五千をもって豊璋は、本国に送り届けられた。豊璋が国に入るとき福信が迎えに来て、平伏して国の政治を統べて委ねた。

 






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