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212 百済王捕らえられ 洛陽に

 斉明六年(660年)十一月一日 唐の将軍蘇定方に捕らえられた百済義慈王以下、太子(りゅう)を始めととした王子十三人・大佐平(百済官位六位)沙宅千福《さたくせんぷく》・国弁生こくべんじょう(ともに、貴族)以下三十七人、あわせて五十人(旧唐書百済伝によれば五十七人)を急に引き連れて唐の朝廷に奉った。第三代唐皇帝高宗は則天門そくてんもん(準都、洛陽市街のほとりに立つ門)の楼上からこの捕虜を見下ろし、博徳ら、遣唐使の居並ぶ目の前で、捕虜達を許し、釈放した。

 十九日 皇帝は遣唐使一行をねぎらわれた。

 二十四日 遣唐使一行は洛陽を離れ、帰途についた。


 これをさかのぼる九月五日 百済は達卒だちそち(百済官位十六位の二位、名は未詳)・沙弥覚従さみかくじゅう(沙弥は僧より位が低い仏教者)を遣わして、奏上した。(書紀には、「ある本によれば逃げてきて禍を告げた」とある。)


「今年七月に、新羅は力を自信とし勢いをもって、百済と親和せず、唐人を引き連れて、百済を傾け覆しました。王も臣下もみな捕虜となり、ほとんど残る者はおりませんでした。(ある本に云うには、七月十日に大唐の蘇定方は十三万人の船団を率いて、尾資びし《百済の西南、錦江の河口か》の津にいくさす。新羅の王春秋智(しゅんしうち)=武烈王は兵馬を率いて、怒受利のずり山(百済の東の堺)に進出した。西と東から百済を挟み撃ちにして、戦いあうこと三日、《七月十三日》わが《百済》王城泗沘しひ城が陥落した) これにより西部恩卒鬼室福信さいほうおんそちきしつふくしん(西部は百済五区画のひとつ恩卒は百済官位十六階の三位。福信は滅ぼされた義慈王の父、武王の子)は激しく怒って任射岐にざき山に陣どりました。達卒だちそつ(百済官位十六階の二位)余自進よじしん(百済の王族)は中部の久麻怒利くまのり城に陣取りました。おのおの一所に陣取って、散らばってしまった兵を誘い集めたのです。兵器が前の戦になくなってしまったので、棒を以て戦いました。新羅の軍は敗れ百済は兵器を奪いました」

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