206 日本最初の、大化という年号の謎
この憲法十七条のあとの出来事を簡単に記せば、
推古十五年(607年・憲法十七条作成の三年後)小野妹子を隋に使わす。
推古十七年(609年) 妹子、隋より帰る。
推古二十九年(621年)聖徳太子、斑鳩の宮にて亡くなる。
推古三十四年(626年)蘇我馬子亡くなる。
推古三十六年(628年)推古天皇亡くなる。
舒明元年(629年)田村皇子即位
舒明九年(637年)蝦夷の反乱。上毛野君形名、蝦夷討伐に敗れる。
舒明十三年(641年)天皇崩御
皇極元年(642年)皇后の天豊財重日足姫、即位
皇極二年(643年)蘇我入鹿、巨勢徳太らを遣わして、山背大兄王を殺す。
大化 元年(645年)中大兄皇子、大極殿で蘇我入鹿を殺す。蘇我氏崩壊。皇極天皇は帝位を軽皇子(孝徳天皇)に譲る。中大兄皇子を皇太子と定める。
(筆者註・書紀、皇極四年(645年)の条に、日本最初の年号に関わらず、簡単に「皇極天皇の四年を改めて大化元年とす」という記事があるのみである!書紀では、大化が年号の始めだが、法隆寺釈迦銘には崇峻天皇四年(591年)を元年とする年号、「法興」が発見されている。これは、非常に謎めいている。書紀によれば天智天皇九年(670年)の条に、「四月三十日夜半の後に法隆寺に災あり。一屋も余すところなし。大雨降り、雷鳴る」とある。近年の法隆寺の発掘調査によって、この法隆寺焼失は定説となっており、当然ながら建立当初からの仏像なども焼失時に燃えてしまったであろうから、現在の釈迦像は、後から搬入されたものであると考えられる。大和に年号のない時代に「法興」の年号があったとすれば、それは「倭国」の年号と推測できる。また崇峻天皇もリンクしているから「崇峻天皇」は倭国の天皇名ではなかろうか。ここには有りし日の倭国の片鱗が残されている。してみれば、磐井が亡くなって50年も過ぎた時に、いまだ倭国は健在であったことが判明する!イメージでは倭国・大和国、二王朝鼎立という感じがしてくるではないか。書紀によれば崇峻天皇の母は蘇我稻目の娘である。これによれば、蘇我氏ですら、大和国の大臣でなく、倭国の大臣ではなかったかという混乱が生じてくるが、このことは又、今後の私の著で考えたい)