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202 任那回復に大軍団出兵

「新羅は反省しています、撃つまでもありません」と将達は天皇に申し上げた。

 そこで天皇は難波吉士神なにわのきしみわを新羅に遣わした。また、難波吉士木蓮子なにわのきしいたびを任那に遣わして、その事情を調べさせ、状況を分析させた。

 詳しいことを述べに新羅・任那両国は使いを、日本に遣わし、調(貢納)を献上し言った。

「天に神がおられます。地に天皇がおられます。この二つの神を除いては、どこに賢き方がおられるでしょうか。今より以後、新羅と百済は攻めあう事を致しません。また船の舵が乾くこともないように、年ごとに必ず朝貢いたします」と。

 この言葉を信じて、天皇は将達を召還しゅうかんした。将軍達は新羅より帰ってきた。しかし新羅はこれを好機として、また任那を占領してしまった。

 

(筆者註・この出兵が、事実であったかどうか疑わしい。前記の文と重複するが、さらなる日本の干渉を嫌い、新羅は日本に、年ごとの任那の納税に合わせて新羅も納税するといった形で朝貢するという追加の契約がこの時なされたのではないのだろうか。大和朝の基本的姿勢は倭国と異なり、植民地主義から撤退であるから、新羅からの申し入れは妥当であると了承されたのであろう。)


 推古十年(602年)二月一日 久目くめ皇子(用命天皇の皇子。聖徳太子の同母弟)を新羅を討つ将軍とした。神職祈祷の者をはじめ、国造、伴など合わせて軍兵は二万五千人であった。

 四月に久目の皇子は筑紫に到達した。更に進んで、韓地に近い、筑紫北岸の島部に船を集め、糧食を調達した。


 六月三日来目皇子が病気にかかり、征討ができなくなった。

 十一年二月四日 久目皇子が筑紫にて亡くなった。早馬が朝廷に向かって走った。天皇はひどく驚いて皇太子の聖徳太子と蘇我大臣を呼んで言われた。「新羅をつ大将軍の久目皇子が亡くなった。そのため、計画を遂げる事ができなくなった。大変悲しい事だ」と。


 四月 来目皇子の兄、当麻君とうまのきみを新羅を撃つ将軍とする。

 七月三日 当麻皇子は難波より発船した。当麻皇子が播磨はりま(今の、兵庫県南西部)に至った時、皇子に伴った妻の舎人姫とねりのひめが明石で亡くなられた。これによって当麻皇子は大和に戻ってしまった。こうして遂に新羅を征伐することができなくなった。(筆者註・随分と根性のない話ではあるまいか!将軍が亡くなった。第二の将軍の妻が亡くなったということで、筑紫に集めた二万五千の兵の出兵が中止になったというのは、最初からやる気がないのか、もともとなかった話ではないだろうか)




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