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201 任那滅亡後

敏達びたつ元年(572年) 敏達天皇即位

     四年(575年)六月 新羅は使いを遣わして多多羅たたら須奈羅すなら和陀わだ発鬼ほちきの四つの村の調ちょうを進上した。(筆者註・新羅は任那併合後、この地の税と言える調を日本に納める義務を負っていたようである。この四つの村は継体二十三年(529年)四月条の一本あるほんに云わくに記されている、任那から新羅が占領し抜き取った村である。ここから考えると新羅は大和国との和のために、任那が引き続き日本領である形を取ったのだろう)


    十四年 物部守谷 寺塔・仏像・仏殿を焼く。八月天皇崩御。九月用明天皇即位  

用命二年(587年)天皇崩御。七月蘇我馬子、物部守屋大連を滅ぼす。八月崇峻天皇即位。    

崇峻元年(588年)蘇我馬子、法興寺を造る。

   四年(591年)天皇、任那回復のみことのりを発する。

   五年(592年)蘇我馬子、天皇を暗殺させる。十二月推古(すいこ)天皇即位。

推古元年(593年)厩戸うまやど皇子(聖徳太子)を皇太子とする。四天王寺を難波に造る。

   八年 新羅と任那交戦。

(筆者註・欽明二十三年正月の条の任那滅亡のあと、前記四村の調を新羅は日本に約束したが、その約束が怠られがちであったので、朝廷が出兵したかと思われるが、この交戦があったことは真実であるかどうか解らない。以下は書紀本文である)


 推古八年 二月 新羅と任那はお互いを攻めた。天皇は任那を救おうと思った。この年

 推古八年、境部臣さかいべのおみ(蘇我氏の一族と云われる)を大将軍に命じた。穂積の臣(物部氏族)を副将とした。すなわち万余りの兵を率いて、任那のために新羅を討とうとする。直接、新羅を目指して船で行く。新羅に到達してたちまちに五つの城を攻めて落とした。新羅の王は、丁重に白い旗を掲げて、将軍の旗の下に立った。王は六つの城を譲って従うと言う。将軍達は相談して「新羅は罪を知って降伏してきた。このうえ撃つというのはよろしくあるまい」と言った。

 

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