第1話 婚約破棄
「マルグリット、貴様との婚約を破棄する」
王宮の大広間。
大勢の貴族が見守る中、私はその言葉を聞いていた。
目の前にいるのは、この国の王太子。
フィリップ・ド・ラ・ロシュ。
私の婚約者だった人だ。
「理由を……お聞かせいただけますか?」
声が震えないように、ゆっくり尋ねる。
フィリップは、私を見下ろした。
「貴様には王妃になる資格がない」
「……そうですか」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
けれど、不思議と涙は出なかった。
私は幼い頃から、魔力が弱かった。
貴族の令嬢なら扱えて当然と言われる魔法すら、私は満足に使えない。
そのせいで、いつしか私はこう呼ばれるようになった。
――無能令嬢。
そんな私を、フィリップは王太子妃として迎えることを決めた。
だからこそ、私は必死だった。
王妃になるために必要な勉強をした。
礼儀作法を身につけた。
領地経営についても学んだ。
少しでも役に立てるように。
少しでも、彼に相応しい人間になれるように。
それなのに。
「セシルこそ、私の妃に相応しい」
フィリップの隣に立つ令嬢が、静かに頭を下げる。
セシル・ド・ベルナール。
最近、王太子と親しくしていると噂されていた令嬢だ。
大広間のあちこちから、小さなざわめきが起こる。
私は二人を見つめた。
そして、ほんの少しだけ息を吐いた。
「承知しました」
「……何?」
フィリップが、初めて驚いたように私を見る。
「婚約破棄を受け入れます」
「本当に、それでいいのか?」
「はい」
むしろ、これ以上何をすればいいのだろう。
私はもう十分に頑張った。
王妃になるために。
彼の隣に立つために。
誰かに認めてもらうために。
だから――もういい。
「これまでありがとうございました、殿下」
私はドレスの裾をつまみ、深く頭を下げた。
顔を上げる。
フィリップは、少しだけ意外そうな顔をしていた。
まるで私が泣き崩れるとでも思っていたように。
「……マルグリット」
「何でしょう?」
「貴様は、本当にそれでいいのか?」
「はい」
今度は迷わず答えた。
「私たちの婚約は、これで終わりです」
そう言って、私はその場を離れようとした。
その瞬間だった。
――頭の奥に、鋭い痛みが走った。
「っ……」
思わず足を止める。
視界が揺れる。
何かが頭の中に流れ込んでくる。
知らないはずの記憶。
知らないはずなのに、私は知っている。
王宮。
王太子。
婚約破棄。
そして――。
『悪役令嬢マルグリットは、婚約破棄の後に国外追放となります』
「……え?」
誰かの声が聞こえた気がした。
『その後、魔王復活による戦乱に巻き込まれ――』
胸が大きく跳ねる。
私は頭を押さえた。
「なに……これ……」
知らない記憶。
けれど、それは確かに私の中にあった。
そして最後に。
『マルグリットは、処刑される』
「――っ!」
私は息を呑んだ。
さっきまでの婚約破棄など、どうでもよくなるほどの衝撃だった。
頭の中に浮かんだのは、見覚えのない世界。
見覚えのない物語。
そして、その物語の中で。
私は――死ぬ。
「……まさか」
震える手を見つめる。
心臓が、嫌なほど大きく鳴っていた。
私はまだ知らない。
この日が。
私の人生が終わる日ではなく――
私が、自分の人生を取り戻す最初の日になることを。




