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第064話 母の顔

 

 白髪の女は、夜明け前の馬車の前に立っていた。


 クロもチビも接近に気づかなかった。


 眠りの呪歌で気配そのものを静め、見張りの間を抜けたのだ。


 ハナだけが匂いで気づき、姉妹を庇うように立つ。


「リリア」


 母は幼い頃、舞台の外では名前の最初を少し長く伸ばした。


「リーリア」。


 白髪の女も同じ癖で呼んだ。


 その呼び方だけで、胸の奥が八歳へ戻った。


 リリアは一歩進みかけ、すぐ足を止めた。


 前夜に置いた目印が、女の足元で崩れている。


 馬車へ向かう足跡はまっすぐではなかった。途中で何度も横へ逸れ、地面を爪先で削っている。近づこうとする命令と、近づくなという意思が、同じ歩幅の中で争っていた。


「お母さん、そこから動かないで」


 リリアは自分の声が震えるのを聞いた。


 抱きつきたい。


 けれど、一歩の距離が命取りになるかもしれない。


 母に会った娘ではなく、妹と三匹を守る姉として、距離を選ばなければならない。


 レクイエムは止まった。


 止まったという事実だけで、セレナがまだ中にいると信じたくなる。


 だが次の瞬間、首元の契約印が黒く光り、白い足が半歩進んだ。


 命令は、娘の願いより強かった。


 女は、母セレナが寝かしつける時の旋律を口ずさむ。


「星を数える子守歌」の二番。


 歌詞の最後で、二人の名前を入れ替えて笑う。家族しか知らない間違いまで同じだった。


 一音も違わない。


 リリアは馬車の階段を降りた。


「お母さん?」


 呼びかける声が、子どものように震える。


 十二年、想像の中で何度も呼んだ。


 再会したら抱きつく。なぜ戻らなかったのか尋ねる。父の最期を聞く。


 どの言葉も、灰色の瞳を前に消えた。


 灰色の瞳は動かない。


 女は白い手を伸ばした。


「眠りなさい。もう歌わなくていい。もう笑わなくていい」


 声だけは優しい。


 娘が疲れていると見抜き、休ませようとする母の響きが残っている。


 だからこそ恐ろしかった。


 休息と終わりを区別できなくなっている。


 抱きしめるための手ではなかった。


 生きる意志を奪う呪歌が、指先から広がる。


 馬車のランプが一つずつ消え、草が風もないのに伏せる。


 チビの瞼が落ち、クロが足を踏ん張る。エミは短杖の防御光を三匹へ分けた。


 エミが姉の前へ立ち、短杖を構えた。


「あなたは、お母さん?」


「エミ。小さな娘」


「私は、もう小さくない」


 エミは震えながら答える。


「十六歳。魔獣使い。お姉ちゃんの相棒」


 レクイエムの瞳が、ほんの少しエミの現在へ焦点を結ぶ。


 名前を知っている。


 けれど目の前の女は、成長したエミを見ていない。四歳のまま、守れなかった子どもとして呼んでいる。


「私はレクイエム。苦しみを終わらせる歌」


「誰がつけた名前?」


「……」


 初めて答えが途切れる。


 自分で選んだ名ではないと、沈黙が示した。


 エミはそこで畳みかけなかった。


 質問を急げば、契約印が答えを奪う。


 短杖を低く構え、声を小さくする。


「好きな食べ物、覚えてる?」


 場違いな質問に、リリアが息を呑む。


 レクイエムの灰色の瞳が揺れた。


「……焼き林檎」


「誰が焦がした?」


「アルノ」


 名が出た瞬間、契約印が首を締めるように黒く光った。レクイエムの口元が歪み、次の言葉が呪歌へ変わりかける。


 エミは短杖の光を切った。


 もっと聞きたい。


 父のことも、襲撃の夜も。


 だが残った記憶を無理に引き出せば、母をさらに壊すかもしれない。


「今日はここまで」


 エミは自分へも言い聞かせた。


 会話は勝利ではない。


 次も話せる状態で終わらせることが必要だった。


「セレナじゃないの?」


 女の瞳が一瞬揺れた。


 すぐ灰色へ戻る。


「生きれば、また失う。眠れば、もう誰も奪えない」


「眠ったら、会えない」


 エミが言う。


「今、会えたのに」


 レクイエムの手が一瞬止まる。


 呪歌が強くなる。


 リリアは笑顔を作ろうとした。


 舞台口調で、観客を安心させる言葉を言おうとする。


「皆さま、ご心配なく」と口が動く。


 ここに観客はいない。


 母と妹と、自分だけだ。


 それでも役割の言葉でしか立てない。


 何も出ない。


 母の顔が、娘たちを眠りへ連れていこうとしている。


「お母さんって呼びたいのに」


 リリアの細剣が震えた。


「剣を向けなきゃいけないの?」


 燃舞の切っ先が下がる。


 レクイエムを斬れば、母の身体を斬る。


 斬らなければ、妹の生を奪われる。


 どちらを選んでも家族を失うように思えた。


 レクイエムは答えず、優しく手を伸ばす。


 指先がリリアの頬へ触れる寸前、母の手つきへ戻る。


 次の瞬間、契約印が首元で光り、その手を呪歌の形へ強制する。


 女自身も術式に逆らっている。


 リリアの舞台口調も、笑顔も完全に消えた。


「どうして……その顔で、私を見ないで」


 レクイエムの頬を、一滴だけ涙が伝った。


 本人はその涙に気づかないまま、霧へ消えた。


 霧へ変わる直前、白い指が燃舞の鞘に触れた。


 斬るためでも、奪うためでもない。


 鞘の古い傷を、確かめるような手つきだった。


 それは父アルノが、リリアの初舞台の日につけた傷だった。緊張したリリアが剣を落とし、父が拾おうとして舞台板へぶつけた跡。


「……転んでも」


 レクイエムの唇が動いた。


 続きは呪歌に呑まれた。


 けれどリリアは知っている。


 転んでも、笑って逃げろ。


 母は父の言葉を覚えていた。


 覚えているのに、娘を眠らせようとしている。


 希望は、痛みの形で増えていった。


 消えた後、地面には二種類の足跡が残っていた。


 馬車へ向かう足跡と、途中で後ろへ踏ん張った跡。


 契約に動かされるレクイエムと、娘へ近づくことを拒んだセレナが、同じ身体の中で争っていた。


 エミは灰色の糸を短杖へ巻き、残留魔力を読む。


 命令は「娘たちを眠らせ、魔王城へ連れ帰れ」。


 その下に、ほとんど消えた別の意思がある。


 逃げて。


 母は十二年前と同じ言葉で、今も二人を守ろうとしていた。


「追いかける?」


 エミが問う。


 リリアは燃舞を握ったまま動けない。


 今なら追いつけるかもしれない。


 だが追えば、契約の命令が強まり、母自身の抵抗を失わせる可能性がある。


「今は、追わない」


 代わりに、二人は足跡の周囲へ目印を置いた。


 次に来た時、母の意思がどちらへ身体を動かしたか比べられる。感情に押されて追わないことと、何もせず待つことは違う。


 エミは逃げてという残留思念も記録し、リリアは母が呼んだ二人の名を、一字ずつ帳面へ書いた。


 会いたい気持ちより、次に母へ選択を返す準備を優先する。


 リリアは足跡の前へ膝をついた。


「お母さん」


 今度は呼びかけても返事がない。


 それでも、初めて確信を持って母と呼んだ。


 エミが隣へ座る。


 二人とも泣けなかった。


 母が生きていた喜びと、母が敵である悲しみが大きすぎて、感情がまだ身体へ追いつかなかった。


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