第102話 火傷が消えた朝
夜明け前、アレンは親父さんの夢を見た。
それでも、謝る言葉を探さなかった。
焼ける前のソルヴェイ村を歩く。
井戸の桶が軋み、トマが見張り台であくびをしている。
広場ではリオが木剣を振り、十回目で数を誤魔化した。マルタ婆さんは気づいているのに、今日だけは十一と数えてやる。
畑へ向かう老人へ朝の挨拶をする。
洗濯物を干す母親たちが、今日の天気を言い合っている。
アレンが通っても、誰も会話を止めない。
薪を運べと籠を渡され、跳ねた泥を笑われ、曲がった柵を午後までに直せと言われる。
死者の村ではなく、今日の仕事が残っている村だった。
アレンは夢の中で、何度も立ち止まりそうになった。
ここにいれば、誰も焼けない。
親父さんも、リオも、マルタ婆さんも、朝の仕事へ向かうだけだ。
けれど井戸の桶を運んだあと、次の桶が渡される。
柵を直せば、畑の石を拾えと言われる。
夢の村は、留まる場所ではなく、いつもどおり次の用事を渡してくる。
死者たちはアレンを過去へ閉じ込めない。
生きていた頃と同じように、働けと言う。
死んだ者たちは、アレンを責めない。
勇者だと讃えもしない。
生き残った理由を尋ねない。
「おはよう」
「おはよう」
普通の朝の言葉だけが返る。
アレンも全員の名を呼ぼうとはしなかった。
忘れないために数え続けるのではなく、そこにいる者へ、いる間の挨拶を返して歩く。
家へ戻ると、親父さんが朝食を作っていた。
固いパンと薄い豆のスープ。
卓上には二人分ある。
「親父さん」
「起きたなら座れ」
使命を託す言葉はない。
村を救えなかったことへの赦しもない。
親父さんはパンを割り、大きい方をアレンの皿へ置く。
「食べていけ」
「どこへ行けばいい」
「朝飯のあとに決めろ」
アレンは笑った。
スープは夢の中でも薄かった。
「塩、入れ忘れてる」
「食えるなら十分だ」
いつもの返事だった。
アレンは椀を空にし、パン屑まで指で集めた。
席を立つ時、親父さんは見送るとも、行くなとも言わない。空になった椀を二つ重ね、次の食事の支度を始める。
その背中へ、アレンは一度だけ頭を下げた。
目を覚ますと、旅宿の小さな部屋だった。
窓の外はまだ青い。
一人になったはずなのに、机には仲間たちが残した地図、住所、公演券、運賃を直された乗車券がある。
ローグの暗号表には、最後の一行だけ普通の文字で「生きて返事をしろ」と書かれていた。
診療所の開所日の横には、セラフィーナの字で休診日が囲まれている。
公演券の裏には、エミが描いた三匹の足跡が重なっていた。
別々の道へ進んでも、部屋は空っぽではなかった。
アレンは宿の台所を借りた。
パンを二つ焼き、豆のスープを鍋いっぱい作る。
一人分より多い。
作ってから気づいた。
火加減は下手だった。
パンの片面が少し焦げ、豆は柔らかくなる前に煮崩れた。
それでも、アレンは鍋を捨てなかった。
親父さんの夢のスープも薄かった。
完璧でなくても、朝食にはなる。
誰かと食べるなら、なおさらだ。
食堂へ運ぶと、入口で若い旅人が立ち止まっていた。
泥だらけの靴。空腹を隠すように腹へ荷袋を抱えている。
「宿代なら払った。食事は別だって」
「俺も作りすぎた」
嘘ではない。ただ、一人分を作る手つきをまだ覚えていなかった。
アレンは椀へスープをよそう。
大きい方のパンを旅人へ渡しかけ、少し迷って半分に割った。
「どこへ行くんだ」
「東。焼けた村を直す仕事があるって聞いた」
ボルドとミアの交易路だ。
「家を建てるのか」
「最初は井戸と倉庫。住む奴が決まる前に、雨を避ける場所が要るんだってさ」
旅人は、自分も故郷を離れて長いと話した。帰る場所を作る仕事なら、帰れない者にもできると思ったのだという。
アレンはソルヴェイの名を告げかけたが、飲み込まなかった。
村跡へ行けば、名前は碑ではなく、荷札や工事の帳面に何度も書かれる。自分だけが守らなくても、もう消えない。
「俺の村だった」
それだけは言った。
カイルは椀を持つ手を止めた。
「戻るのか」
「今日は、通る」
帰る、とはまだ言えなかった。
だが避けるとも言わない。
通ることも、今のアレンには十分な一歩だった。
「途中まで一緒だ」
二人で朝食を食べる。
旅人は勇者の顔を知らなかった。
アレンも名乗らない。
代わりに、東路は昼前に川を渡った方がいいこと、二つ目の分かれ道では右を選ぶことを教えた。
戦うためではない知識を誰かへ渡せたことが、少し嬉しかった。
食後、井戸で椀を洗う。
朝日が宿の屋根を越えた。
冷たい水が左手首を流れる。
長く皮膚へ残っていた火傷の痕がない。
アレンは何度か手首を返した。
昨日まで薄い線はあった。
魔王が消えた瞬間でも、仲間と別れた瞬間でもない。眠り、食べ、誰かと朝の行き先を話した、その間に最後の色が抜けていた。
慌てて喜びはしなかった。
最初に浮かんだのは、少しの寂しさだった。
この痕を見れば、自分が何を失ったか思い出せた。痛みがあるうちは、親父さんたちと繋がっている気がしていた。
消えた手首を見て、置いていかれたように感じる。
けれど水面に映る自分の顔は、昨日と同じアレンだった。
傷が消えても、名前は消えない。
思い出すために、痛みを残しておく必要はなかった。
傷が合図を待っていたのではない。
身体はずっと前から治ろうとしていて、アレンが今日ようやく、その変化に気づいたのだ。
痛みも、赤い線も消えている。
忘れたわけではない。
村の名前も、親父さんの声も、炎の熱も覚えている。
ただ、死者の代わりに生きるための傷ではなくなった。
痕が消えても、受けたものまで無かったことにはならない。
覚えていることと、傷つき続けることは、同じではなかった。
自分の命を、自分の未来へ使っていい。
アレンは夜明けの欠片を背負う。
完全解放を終えた剣は、また静かな白銀へ戻っている。
命令もしない。
行き先も示さない。
宿の前で旅人が待っていた。
名を尋ねると、旅人はカイルと答えた。
「あんたは?」
アレンは少しだけ考える。
肩書きを先に置かず、自分の名だけを口にする。
「アレンだ」
カイルはそれ以上、何者かを聞かなかった。
勇者か、英雄か、村を失った生き残りか。
どの名も嘘ではない。
けれど今朝の旅には、まず名前だけで足りた。
「東でいいのか」
アレンは朝日に伸びる道を見る。
仲間たちへ続く道も、その先でまだ知らない誰かへ続く道もある。
「今日は東へ行く」
自分で選んだ一歩を踏み出す。
勇者ではなかった少年は、今日ようやく、自分を勇者と呼べる気がした。
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