第100話 国際会議の廊下
アルフォンス王子は、冠も護衛もなく歩いていた。
両脇にいるのは国際法廷の監察官だった。
王位継承者として会議へ出るのではない。
証言台へ向かう一人の被告として、セラフィーナとすれ違う。
彼は足を止めなかった。
セラフィーナも止めない。
監察官がアルフォンスを証言者の控室へ導く。
セラフィーナは反対側の扉から会議室へ戻った。
扉の前で、一度だけ深く息を吸った。
ここへ来るまで、何度も自分の証言を読み返した。
追放された日の言葉。
治癒院から締め出された患者の名。
イゼベルの影で自分が見失ったもの。
どれも、声に出せば過去が戻ってくる。
だが今日は、過去へ戻るためではなく、同じ仕組みを残さないために話す。
ガウェインは扉を開ける前に、彼女の方を見た。
「休むか」
「いいえ」
セラフィーナは首を振る。
「休む権利があると分かった上で、続けます」
その違いを、自分に言い聞かせる。
会議室の中では、リーゼ=ファルネが証言を続けていた。
淡い金髪は短く切られ、聖女候補の白い衣も着ていない。
「私は香炉を運ばされました。中身は知りませんでした。王子の隣で笑うよう命じられ、断ると故国の避難民への支援を止めると言われました」
声は震えている。
傍聴席では、同じ故国から逃れた者たちが息を潜めていた。
リーゼは一度だけそちらを見る。自分の証言で支援が失われるかもしれないという脅しは、今日まで身体の中に残っていた。
それでも、誰かの生存を人質にした命令を、善意とは呼ばなかった。
それでも、用意された文書ではなく自分の言葉で話す。
適合しない大結界へ接続され、検査結果を隠され、倒れるまで出力を上げられたこと。
目覚めた後も、新しい聖女として王宮へ戻る契約へ署名を求められたこと。
治癒院が保管していた検査表には、接続のたびに心拍が低下した記録があった。王宮へ提出された写しでは、その欄だけが空白にされていた。
リーゼは原本と写しを、自分の手で審理官へ渡す。
「聖女位を受ける意思はありません。アルフォンス殿下との婚約も望みません」
議場がざわめく。
リーゼは続けた。
「治癒を学ぶことはやめません。一人へ国の結界を背負わせない、分散型治癒網へ術者の一人として参加します」
新しい治癒網には、接続を拒む権利、連続稼働の上限、術者以外による記録監査が組み込まれる。
緊急時という言葉だけで同意を奪えないよう、解除権限は複数の町へ分けられた。
セラフィーナが旅の途中で書き始めた案へ、リーゼ自身が修正を加えた制度だった。
修正箇所の一つに、リーゼの筆跡が残っている。
術者本人が「怖い」と言った時、その言葉を医療記録として扱うこと。
以前の制度では、恐怖は未熟さや不敬として処理された。
新しい規定では、恐怖も身体の異常と同じく、接続を止める理由になる。
セラフィーナはその一文を見た時、長く黙っていた。
自分が昔、怖いと言えなかったからだ。
リーゼはそこへ、自分の言葉を入れた。
救われる側だった少女が、次の誰かを守る制度の文章を書いている。
聖女の代わりではない。
セラフィーナの代わりでもない。
自分で選んだ一人の治癒術師として立つ。
審理官が確認事項を読み上げる。
宰相オルドールは証拠隠滅と呪詛命令の制度化により拘束。
大聖典官ドーリアンは免職され、適合検査の改竄と人体への強制接続で訴追。
王宮と聖法院が分けていた記録は国際法廷へ統合され、被害者本人が閲覧できる。
審理官は処分名だけで終えず、失われた名を読み上げた。
大結界で倒れた術者。適合検査から外された治癒師。香炉の影響で判断を奪われた兵士。支援停止を恐れて沈黙した避難民。
議場の静けさは、王家の失墜を見るためのものではなかった。記録から消されかけた一人ずつを、もう一度社会へ戻すための時間だった。
アルフォンスの番が来た。
彼は証言台で、イゼベルの洗脳を受けていた期間を説明した。
その後、自分から付け加える。
「だが洗脳以前から、私はセラフィーナの負担を知りながら放置した。リーゼの適合異常を確認せず出力を命じた。操られていたことは、私の判断と加害を消さない」
アルフォンスは、自分が署名した命令書の日付と、同席していた者の名を順に述べた。
弁護側が洗脳期間との境界を強調しても、彼は答えを短くしなかった。
どこからが呪詛で、どこまでが自分の弱さだったか。判別できない部分も含め、調査へ渡す。それが彼に残された最初の責任だった。
王位継承権は凍結。
政治権限は停止。
被害調査への協力と、今後の刑事判断を受ける。
審理期間中は地方離宮で謹慎し、王宮の記録や人員へ直接命令することを禁じられた。
屈辱を見せるための判決ではない。
誰が何を決め、誰が傷ついたかを記録し、同じ仕組みを作らないための責任だった。
審理が終わり、セラフィーナは会議室を出る。
扉が閉じると、指先が遅れて震えた。
勝ったからではない。長く自分を縛っていた出来事が、ようやく自分だけの記憶ではなく、公の記録になったからだ。
ガウェインはその手を取らない。差し出されるまで待つ。
セラフィーナはしばらく、自分の手を見つめた。
この手は、かつて誰かの命を救うためだけに存在すると教えられた。
救えなければ罪。
休めば罪。
拒めば罪。
今、指先は震えている。
それでも誰も、震える手を役立たずとは呼ばない。
彼女は自分から、ガウェインの袖を軽く掴んだ。
支えられるためではなく、隣に誰かがいることを自分で選ぶために。
ガウェインはそこで初めて歩幅を落とした。
廊下の先で、再びアルフォンスとすれ違った。
今度だけ、彼が立ち止まる。
「セラフィーナ」
愛称ではない。
役目でもない。
彼女は振り返らず、次の言葉を待った。
「幸せになってくれ」
許してほしいとは言わない。
戻ってほしいとも言わない。
セラフィーナは答えなかった。
その願いを受け取る義務もない。
許さないまま進んでもいい。いつか意味が変わっても、変わらなくてもいい。
選ぶ権利は、ようやく彼女の手に戻っていた。
ただ、自分の行く方向へ歩き続ける。
ガウェインが無言で隣に並んだ。
歩幅を合わせるが、行き先を決めようとはしない。
二人の少し後ろで、オズワルドが呟いた。
「正解じゃ」
何が、とセラフィーナは聞かなかった。
答えを一つに決めないまま歩けることを、今は正解と呼べばよかった。
廊下の窓から、会議場の外庭が見えた。
そこでは各国の治癒師たちが、早くも新しい名簿を交換している。
誰が上に立つかではない。
誰が倒れた時、誰が代わるか。
そのための名簿だった。
セラフィーナは窓辺で一度だけ立ち止まる。
自分の名前は、その中心ではなく、輪の一つに書かれていた。
それが嬉しかった。




