第01話 ここまでにします
兵庫県、神戸市内にある八ツの神社を巡る男女の物語です。
当作品は、完結済みとなっております。
ポートタワーに吸い込まれた理由は、後からどれほど記憶の糸を解こうとしても、その輪郭はぼやけたままだった。
展望台から景色を眺めたいと切望した覚えもなければ、誰かと待ち合わせる約束があったわけでもない。ただ、あてもなく外を歩き続ける理由を見失い、その空白を埋めるように屋内へ足を踏み入れた。それが、その時の自分に最も近い真実なのだと思う。
確信があるわけではない。けれど、少なくとも当時の僕に、明確な『目的』なんて上等なものは持ち合わせていなかったはずだ。
(……時間が、余りすぎているんだ)
持て余した時間というものは、想像していたよりもずっと扱いづらい。何もしなければ勝手に過ぎ去ってくれるほど慈悲深くもなく、むしろ澱のように手元に溜まり続け、じっとこちらを窺っているような感覚さえある。
会社に身を置いていた頃、時間は容赦なく削り取られていく消耗品だった。だが今は違う。自分から能動的に削り取らない限り、一向に減ってはくれない。その不可視の重みが、じわじわと僕の精神を侵食していた。
目的地などないのに、ただ足だけが前に出る。そんな彷徨の果てにここにいるのだと考えれば、理由がないこと自体に、かろうじて筋が通る気がした。
パンフレットが整然と並ぶ棚の前で足を止めたのは、知識を求めたからではない。何もせずに立ち尽くしている自分に耐えられなくなったからだ。とりあえず一枚手に取れば、それがこの場所にいる『理由』の代わりになってくれる。そんな安直な逃げ道を探していた。
多種多様な案内が並ぶ中で、その一枚だけが、わずかに浮いて見えた。
表紙には『八社巡り』と記されている。
何故それに指が向いたのか。おそらく、そこに番号が振られていたからだろう。一から八まで、決められた順番。その通りに辿ることを強いる構造。どこから始めてもいい自由はなく、最初から最後までをなぞる前提が用意されている。その整いすぎた形式が、美しくもあり、同時にひどく窮屈に感じられた。
だが、その窮屈さを確かめるように指先が伸びていくのを、僕は否定できなかった。順序に対する反発と、そのレールに身を任せてみたいという渇望。相反する二つの感情が、同じ場所で重なり合っていた。
紙の端に触れた瞬間、ほとんど同時に、別の指がその上に重なった。どちらも引くことができず、刹那の間、時間が止まる。譲るべき理由も、奪い取るべき理由も浮かばないまま、ただ互いの体温が紙を介して交差しているという事実だけが、鮮明に意識に刻まれた。
「「……あっ」」
反射的に指を離すと、パンフレットだけが棚に残され、宙ぶらりんな状態に戻る。
「すみません」
顔を上げると、落ち着いた佇まいの女性がそこにいた。年齢は僕より少し上だろうか。それ以上の詳細は判然としない。感情の起伏を感じさせない彼女の瞳には、状況を淡々と受け止めるような、不思議な静けさが宿っていた。
「いえ」
短く返すと、彼女は視線をパンフレットへと戻し、軽く指をかけた。
「これ、見ますか?」
「……どっちでも」
曖昧に濁すと、彼女は一瞬だけ僕を射抜くように見つめ、それから紙を手に取った。
「じゃあ、私が持っていてもいいですか?」
「どうぞ」
広げられた紙には、番号と線が整然と記されていた。迷い込む隙を与えないその構造は、見ればそのまま歩き出せるように設計されている。それが、妙に印象に残った。
「八社巡りって、ご存知ですか?」
「いや、全然」
「神戸にある八つの神社を、順番に巡るんです」
「……順番、守らなきゃいけないものなんですか?」
つい余計な問いを口にしてしまったが、彼女は気分を害した様子もなく言葉を繋いだ。
「そういうものだと思います。一宮神社から順に、地名もそうなっていますから」
言われてみれば、その通りだ。三宮という地名がここにある以上、その順序を無視する正当な理由を、僕は持ち合わせていなかった。
「行くんですか?」
「今日は時間がありますから。一つくらいなら」
全部を回る気概はない。けれど、何もしないまま空虚に帰路につくよりは、一つだけでも既成事実を作っておいたほうが、今日という一日の手触りが変わる気がしたのだ。
「じゃあ、一宮ですね」
彼女はパンフレットを器用に折り畳むと、迷いのない足取りで出口へと向かった。誘われたわけではない。だが、ここに留まる理由もまた見当たらない。僕は少し遅れて、彼女の背中を追うように歩き出した。
外に出ると、屋内の空気とは違う、どこか凛とした風が頬を撫でた。彼女はスマートフォンで手際よく地図を確認し、立ち止まることなく進むべき方向を見定める。
「こっちです」
振り返らずに放たれた言葉は、指示というほど強くはなく、ただ目的地を共有するためだけの響きを持っていた。
並んで歩いていても、当然の話だが、会話は驚くほど少ない。それでも沈黙が苦痛にならないのは、同じ速度で歩いているという事実が、細い糸のような繋がりを保ってくれているからだろう。信号が赤に変わり、青に変わる。その単調な繰り返しの中で、隣に誰かがいるという異質な状況に、僕の心は少しずつ馴染んでいった。
「今日は平日ですけど……お仕事は、お休みですか?」
「……辞めてます」
「そうなんですね」
それ以上、土足で踏み込んでくるような真似はされなかった。その距離感の取り方が、今の僕には心地よかった。
「そっちは?」
「事務員です。経理をしています。今日は、有給をいただいているんです」
「ちゃんとしてそうですね」
「そう見えますか?」
「順番とか、しっかり守りそうなタイプに見えるんで」
僕が先ほどの話をなぞるように言うと、彼女は少しだけ思案するような間を置いた。
「守らないんですか?」
「別に、決まっているからって、その通りにしなくてもいいかなって思っているだけです」
「私は、決まっている方が楽です。考えなくていいですから」
その言葉に、微かな違和感が胸をかすめた。思考を放棄しているのか、それとも思考を必要としない場所に身を置いているのか。どちらにせよ、彼女が僕とは違う世界の住人であることだけは確かだった。
坂道に差し掛かると、呼吸がわずかに乱れ、足首に重い負荷がかかる。彼女はペースを崩すことなく歩き続け、やがて朱塗りの鳥居の前で足を止めた。
「ここです。一宮神社」
パンフレットの筆頭に記された名前と、眼前の景色が重なる。最初の場所へ、最初の順番通りに辿り着いたという事実が、静かに胸に落ちた。
彼女は迷いなく一礼し、境内へと足を踏み入れる。一拍遅れてその動作を模倣すると、そのわずかなズレが、奇妙に意識に引っかかった。境内は都会の喧騒から隔絶されたように静まり返り、空気の密度が一段深くなったように感じる。
彼女の流れるような所作を盗み見ながら、賽銭を入れ、掌を合わせる。同じ順序をなぞっているはずなのに、そこに宿る動機は、きっと月と太陽ほどにかけ離れている。願い事を考える時間さえなく、ただ儀式的な動作だけが終わる。手を下ろした時、心に残ったのは、何かを完了させたという手応えだけだった。
「一つ目、ですね」
「はい」
言葉はそれ以上続かず、冬の空気の中に溶けて消えた。しばらくして、彼女はパンフレットを開き、その指先で線をなぞってから、静かに閉じた。
「……今日は、ここまでにします。無理に回らなくてもいいですから」
「そうですね」
自然にそう応じると、それで一つの契約が満了したかのように、彼女は軽く頭を下げた。
「じゃあ」
「……はい」
引き留める理由も、言葉も見つからないまま、僕は彼女の背中を見送った。鳥居をくぐり抜けると、再び街の雑踏が鼓膜を叩く。さっきまで隣を歩いていた彼女の姿は、冷たい人の流れの中に紛れ、瞬く間に見失ってしまった。
手元にパンフレットは残っていない。けれど、一つ目だけは終わらせたという感触だけが、掌にかすかに残っている。
これが何かの始まりになるのか、それともここで途切れる物語なのか。正解など分からないまま、僕は消えない引っかかりを抱えて、その場に立ち尽くしていた。
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