1-2 俺、地球に帰れるのか?
「……そうか、そういうことか」
目が覚めたときからずっと感じていた違和感の正体がようやく判明した。
ここは重力が――小さいのだ。
これはもう、俺が今いる場所が地球ではないことの何よりの証拠だ。
他に説明のしようがない。
どんなにあり得ないと思っても、受け入れるしかない。
これが現実なのだ。
俺が動揺していることに気がついたらしく、青い瞳の彼女はベッドに身を寄せると、上腕部をゆっくりとさすってくれた。
皮膚を通じて彼女の優しさが伝わってくる。
「私はファナ。
ファナ・クベロス。
保安部の情報課に所属しているわ。
お医者様からはすぐに退院できると聞いてるから、心配しなくても大丈夫よ」
――退院?
自由になるのはいいが、ここは月だぞ?
その後はどうすりゃいいんだ。
月と地球はとんでもなく離れているし、その間にあるのは真空の宇宙空間だ。
「……俺、地球には帰れるのか?」
一瞬にしてファナの表情が曇り、俺は良い返事が得られないことを悟った。
「ごめんなさい、まだわからないの。
なにしろ前例のないことだから、どうするべきか司令部で検討しているらしいわ」
「検討……ってことは、最悪、帰れない可能性もあるってことか?」
「……簡単ではないの。
人の輸送には、とてもお金がかかるから……」
「……そんな。
俺、こんなとこで生きていくなんて無理だよ!
重力は小さいし、壁の外は真空なんだぞ!」
彼女は口ごもってしまった。
彼女には何の罪もない。
優しく接してくれた恩人にこんな悲しそうな表情をさせてしまうなんて本意ではない。
だが、俺には想像もできないのだ。
このまま地球に戻らず、ずっと月面で暮らすなんて!
――そのとき。
廊下からカツンカツンと甲高い足音が近づいたかと思うと、勢いよく病室のドアが開いた。
「結論は出た。
総務部がそいつの面倒を見ることになったそうだ」
低く高圧的な声とともに、大柄の男が入ってきた。
「アレシオ……」
ファナからアレシオと呼ばれたその男は、がっしりとした屈強な男だった。
アメフトの選手のような体格で、胸板や上腕は大きく盛り上がっている。
欧米人らしい彫りの深い顔立ちで、オールバックの黒髪は綺麗に整えられ、キリリとしたブラウンの目には自信がみなぎっている。
ファナと同じくオレンジ色のユニフォームを着ているところを見ると、恐らく同僚なのだろう。
悔しいほどのイケメンだが、その口もとは不機嫌そうに歪んでいる。
ベッドに横たわる俺を、まるで汚いものでも見るように一瞥すると吐き捨てた。
「その日本人は無職で無一文。
おまけに家族も友人もなし。
地球までの渡航費を負担してくれるような知人も組織も見つからなかったそうだ」
「そ……んな」
ストレートで配慮のない言葉を聞いて、ファナは訴えるような素振りをみせた。
しかし悔しいことに、彼の言っていることは事実なのだ。
そんなことは、俺自身がいちばんよくわかっていた。
「そいつの経歴を調べたが、この月面基地で役に立ちそうな要素は欠片もなかった。
公立高校中退で就業経験はバイトをいくつかやっただけ。
しかも、いずれも長続きしていない。
突出したスキルもなく、まったくの役立たずだ。
……だが、地球に追い返すにしても金がかかる。
この基地は不幸にも、とんだお荷物を抱えちまったということだ」
アレシオは俺が目の前にいることなど気にも留めず、酷い言葉を吐き続けた。
「しかも、趣味の項目を見て驚いたよ。
アニメ鑑賞とゲームだとよ!
日本人にはそういう奴が多いと聞いてはいたが、まったくいい歳をして、頭の中はガキのまんまだ」
「……アニメ?」
ファナは驚いたような顔をして俺を見た。
彼女にとっては意外だったのだろう。
いい大人がアニメ鑑賞を趣味にしていなんて……。
確かに、世の中の常識としてはそうなのかもしれない。
だが、俺は無性に腹が立っていた。
もちろんファナに対してではない。
彼女にこんな表情をさせてしまったアレシオに対してだ。
「……う、うるせーよ」
俺が思わずつぶやくと、奴はピクッと反応し眉根を寄せた。
まるで「お前、言葉が喋れるのか?」と言わんばかりだ。
そのあからさまな態度が、さらに俺の怒りを爆発させた。
「何を趣味にしようが、俺の勝手だろ!
だいたい俺は被害者なんだぞ、口のきき方ってもんがあるだろが!」
俺の日本語をゴーグルがどう翻訳したのかはわからないが、口調からして猛烈に怒っていることは伝わっただろう。
しかし俺の精一杯の虚勢にも、この大男は少しも動じることがなかった。
「それはこっちのセリフだ!
お前がぼんやりしていて誘拐されたせいで、どれだけ経費が使われたと思ってる!
仮死状態のお前を蘇生させるのに、莫大な費用がかかったんだぞ!
文句があるなら、まずは全額返済してみろ!」
……。
何かを言い返したかったが、言葉が出ない。
情けない。
悔しいが、俺には金がない。
地位も権力もない。
助けてくれる家族も仲間もいない。
何も、ないのだ。
俺が誘拐されたのは、俺が弱者だからだ。
もし俺が強靭な肉体を持ち、注意深く歩いていれば、誘拐の標的にされることもなかったかもしれない。
会話を継続する気力さえも失った俺は、天井を見上げながらぼんやりと沈黙するしかなかった。
ふと脳裏に浮かんだのは、秋葉原のネットカフェで過ごしていた頃の記憶だ。
壁に囲まれた狭い部屋で誰にも邪魔されず、ひたすらアニメやゲームに没頭した日々――。
あの包みこまれるような安心感が、とにかく懐かしかった。
――そのとき。
「やっほーっ!」
暗く気まずい沈黙の時間を、有り得ないほど底抜けに明るい声が打ち破った。
声がしたほうを見ると、ドアの脇に立っていたのは、鮮やかなオレンジ色の髪をした女の子だった。
歯をむき出してニカッと笑いながら、両手でピースサインをしている。
ライムグリーンのジャンプスーツは業務用のユニフォームのようだが、ラフに腕をまくり上げ、カラフルなアクセサリーをチャラチャラと腰からぶらさげている。
その派手な容姿も、ポーズも、はち切れんばかりの笑顔も、あまりにも場違いで、強烈なギャップに俺の脳はかき乱された。
こいつ、いったい何者なんだ!?
=== 設定メモ ===
【ファナ・クベロス】
19歳。女性。月で生まれて月で育った(スペイン系)。保安部情報課所属。義務感が強く仕事熱心。誰にでも優しいが、どこか寂しそう。
【アレシオ・ロンバルド】
21歳。男性。アメリカ人。保安部警備課所属。司令官を目指す野心家。日本人もアニメも見下している。
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