1-2 俺、地球に帰れるのか?
「月面ってどういうことだよ!」
俺は気が動転し、大声で叫んでしまった。
心臓の鼓動がバクンバクンと鳴り響き、呼吸が荒くなる。
『月』というのは夜空に浮かぶ、あの『月』のことなのか?
俺ははっとして、両腕で軽くベッドを押してみた。
――全身がふわっと浮き上がる。
「……そうか、そういうことか」
目が覚めた時からずっと感じていた違和感の正体がようやく判明した。
重力が――小さいのだ。
これはもう、ここが地球ではないことの何よりの証拠だ。
他に説明のしようがない。
どんなに非現実的だと思っても、受け入れるしかない事実なのだ。
「なんてこった……」
俺が動揺していることに気がついたらしく、青い眼の彼女はベッドに身を寄せると、上腕部をゆっくりとさすってくれた。
皮膚を通じて彼女の優しさが伝わってくる。
「改めて自己紹介をさせてください。
私はファナ・クベロス。
保安部の救急課所属です。
念のため、ご自分のお名前とお誕生日をおっしゃっていただけますか?」
「ミヤヅカ……レンマ。
2028年、1月7日生まれ……」
「ありがとうございます」
彼女はゴーグルの奥で藍色の瞳を泳がせた。
俺達が使っているゴーグルはいわゆるAR(拡張現実)グラスであり、クラウドと通信をして視野内に様々な情報を表示することができるのだ。
視線移動と瞬きで基本的な操作はできるし、ハンドジェスチャーや内蔵マイクを使えば文字の入力も可能だ。
彼女のゴーグルには青いウィンドウが表示され、リストがスクロールしているのが見える。
きっと俺の情報をデータベースと照合しているのだろう。
「日本政府のデータバンクで、声紋と網膜の確認ができました。
まずは、ご家族に無事をお伝えしないとね……。
……あっ!」
画面内のリストを見る彼女の表情が一瞬こわばった。
親や兄弟の項目が空欄になっていることに気づいたのだろう。
親はとっくに死んでいるし兄弟もいない。
俺は天涯孤独の身なのだ。
「あの……ごめんなさい」
彼女は申し訳なさそうに頭を垂れた。
「いや、大丈夫。
誰にも連絡しなくていいよ。
俺、親戚もいないし、友達もいないから」
俺がそう告げると、彼女は一瞬戸惑いの表情を見せた。
「……でも、あなたが行方不明になって心配している人がいるかも……」
友達がいないことはさっき伝えたつもりだったが、理解してもらえなかったらしい。
「いないよそんな奴。
俺、ひとり暮らしだし、働いてるわけでもないから……」
そう答えると、彼女は何と返事したらいいかわからない様子で黙ってしまった。
彼女にとって、初めてのケースなのだろう。
少し可哀想になって、俺は話題を変えた。
「それより……俺、地球には帰れるのか?」
「ごめんなさい、まだわからないの。
なにしろ前例のないことだから、どうするべきか司令部で検討しているらしいわ」
「検討……ってことは、最悪、帰れない可能性もあるってことか?」
「……簡単ではないの。
人の輸送には、とてもお金がかかるから……」
「……そんな。
俺、こんなとこで生きていくなんて無理だよ!
重力は小さいし、壁の外は真空なんだぞ!」
「月面基地は、とても安全な場所よ。
建造されて20年ほど経つけど、大きな事故は起きていないわ。
でも……。
地球で育った人にとっては、地球のほうがよいですよね……」
「そりゃそうだよ!
いくら安全だって言われても、空気と重力があるところじゃないと安心なんてできねぇよ……」
「そう……ですよね」
彼女は口ごもってしまった。
彼女には何の罪もない。
優しく接してくれた恩人にこんな悲しそうな表情をさせてしまったことについては心が痛む。
だが、このまま地球に戻らず、生涯を月面で暮らすなんて、俺には想像もできなかった。
――そのとき。
廊下からカツンカツンと大きな足音が近づいたかと思うと、おもむろに病室のドアが開いた。
「まだここにいたのか?」
高圧的な声とともに、大柄の男が入ってきた。
「アレシオ……」
アレシオと呼ばれたその男はがっしりとした大男だった。
身長180センチほどで特別に大きいというわけではなかったが、アメフトの選手のような屈強な体格で、胸板や上腕は大きく盛り上がっている。
欧米人らしい彫りの深い顔立ちで、オールバックの黒髪は綺麗に整えられ、キリリとしたブラウンの眼には自信がみなぎっている。
ファナと同じくコバルトブルーのユニフォームを着ているから、同僚なのだろう。
羨むほどのイケメンだが、その口もとは不機嫌そうに歪んでいた。
「ファナ。
そんな奴の面倒を見ても時間の無駄だぞ」
「そ……んな」
心無い言葉に、ファナは訴えるような素振りを見せたが、男の態度は揺るがない。
「記録を見ただろ。
学歴もなく仕事もせず、毎日をなんとなく生きているだけの男だ。
俺達の時間をこれ以上割くのは無駄以外の何物でもない」
アレシオは俺が目の前にいることなど気にも留めず、酷い言葉を吐いた。
まるで傍らに置かれているモノについて説明しているかのようだ。
「しかも趣味の項目を見てみろよ。
アニメ鑑賞とゲームだとよ!
まったくいい歳をして、いまだに頭の中はガキのまんまだ」
「……アニメ?」
ファナは驚いたような顔をして俺を見た。
大人がアニメを見るなんて信じられないといった表情だ。
俺はアレシオに対し、無性に腹がたった。
「う、うるせーよ」
思わず声を上げると、奴は驚いたような顔をした。
まるで「お前、人間の言葉が話せるのか!」と気づいたような反応だ。
「何を趣味にしようが、俺の勝手だろ!
だいたい俺は被害者なんだぞ、口のきき方ってもんがあるだろが!」
俺は日本語でまくしたてた。
奴のゴーグルがどう翻訳したのかはわからないが、口調からして猛烈に怒っていることは伝わっているだろう。
しかし俺の精一杯の虚勢にも、この大男は少しも動じることがなかった。
「それはこっちのセリフだ!
お前がぼんやりしていて誘拐されたせいで、どれだけ経費が使われたと思ってる!
仮死状態のお前を蘇生させるには、莫大な費用がかかったんだぞ!
態度を改めるのはお前のほうだ!」
何かを言い返したかったが、言葉が出ない。
俺が誘拐されたのは、俺が弱者だからだ。
強靭な肉体を持ち、注意深く歩いていれば、誘拐の標的にされることもなかったかもしれない。
「くそ……」
黙り込んだ俺から視線を外すと、アレシオは乱暴にファナの腕を掴んだ。
「さぁ、行くぞ。
今日はメディアの取材対応があるだろ」
吐き捨てるように言うと、男はせかすようにファナを促した。
こいつの態度には逆らい難い威圧感がある。
彼女は憂いに満ちた眼を俺に向けると、諦めたように小さく頷いた。
「……うん。わかった」
ファナは少し緩んでいた表情をきゅっと引き締めると、ベッド脇の椅子から立ち上がり、俺の腕にそっと手を置いた。
「それでは失礼します。
安静にして、ゆっくりお休みください」
寂しそうな微笑みを残し、彼女はアレシオと共に病室を出ていった。
俺はひとりになった。
今まで気にならなかった空調音がやたらと大きく聞こえる。
ひとりでいるのが好きで、いつもひとりで暮らしてきた俺だったが、今、初めて孤独の辛さを感じていた。




