9 元守護人と主
母、和江の四十九日法要もどうにか無事に終わった。
世間では、世界的な流行になりつつある感染症が日本で初めて確認され、大騒ぎになっていた。ただ、その患者が流行地への旅行者だったことで、まだ日本に蔓延することはない、と見られていた。
向坂家辺りでは老齢の患者も多いことから、厳格な対策をとる構えで、全員マスクをして参加してきた。もちろん誰も咎めなかった。
利輝は風格さえ漂わせながら役目を務め、終わるとすぐに帰京した。
優輝は利輝を駅へ送った帰途、家の前を通り過ぎて青柳家に車を停めた。車の音を聞きつけたのだろう。玄関の戸を開けると、もう菊乃夫妻が立っていた。
継主であった柿朗は、風呂へでも入っているのかもしれない。奥から他に出る気配はなかった。
優輝は法要への参加に礼を述べた。菊乃が挨拶を受ける。菊乃が先代の継主で、夫は婿養子である。
代々青柳家に入籍する者の例に漏れず、彼も大人しい人物であった。
「まあ。影正がのんびりしているから、明日帰るのかと思ったわ」
菊乃は利輝が既に帰ったと知って慌てたが、すぐに先の取り決めを思い出した。
「もう、構わないって決まったんだった。まだ、慣れなくて。何せ、お姉ちゃんの時からずっと守護人の生活を見てきたから。あ、今お姉ちゃん道場にいるの。この機会に、昔の物を整理するって」
恐らく菊乃は、照れ隠しに話を逸らした。優輝には効果充分であった。
「影美が? ちょっと上がってもいいかな」
「どうぞ。ああ、法事には遠慮して行かなかったものね」
菊乃が言い終える前に、優輝は靴を脱いでいた。勝って知ったる家の中、案内もなしに薄暗い廊下を進む。
かつての影美の部屋、今は影正の部屋の前に出た。
すぐ隣が道場である。
影正の部屋は開け放してあった。壁一面を埋め尽くしていた本が悉く姿を消し、長年隠された壁がむき出しとなっていた。棚はそのままあるのに、記憶にあったよりも部屋が広く見えた。
道場の戸も開いていた。優輝は入り口に立った。白髪頭の後ろ姿と向かい合って、影正のごく整った顔が正面に見えた。目が合った。
「伯母上は、御先代様を愛していますね」
優輝はその場に釘付けとなった。影正の視線は、既に後ろ姿の人物へと戻されている。顔を見るまでもなく、影美であることは分かっていた。足音が聞こえなかった筈はないのに、影美は振り向かない。
「その問いは、的が外れている」
十数年ぶりに聞く元守護人の声には、老いが混じっていた。ついこの間、病院で聞いた時には気付かなかった。優輝は白頭に目を凝らし、耳を澄ませた。
「誰かを愛しているのか、はっきりさせたい気持ちは、お前自身にあるのだろう。影正、お前の問いには答えられない」
言い終えると白髪頭は立ち上がってこちらを向き、数歩前へ出て一礼した。流れるような動作であった。
「ご無沙汰しております、優輝様」
記憶にあるよりも十数年分老いてはいたが、間違いなく影美であった。同じ年齢なのに、白髪のせいで老けて見える。
優輝も白髪染めを落とせば、このくらいになるか、と思いながら眺めた。一度は外した度付き眼鏡を、再びかけている。視線に気付くと、影美の顔に微笑が広がった。
「老眼鏡です。寄る年波には勝てませんので」
「そうか。少し話をしたいのだが、時間をもらえるだろうか」
優輝は漸く前へ出た。道場には段ボール箱が幾つも積み上げられていた。和綴じの古書が傍らにある。
どうやら二人は、自室にあった本を箱詰めしていたらしい。この寒い時期に、屋内とはいえ、暖房設備もない道場である。並の人間では風邪を引く。
「どうぞ。影正」
影正が立ち上がって道場の入り口を閉め、伝票の束と段ボール箱を一つ抱えると、戸の前に陣取った。席を外す意思がないことを示すように、伝票へ記入する作業を始める。
影美も追い出す様子がない。優輝は影美と二人きりになるのを諦めた。
「元気そうでよかった。連絡が取れなくて心配だった」
「おかげさまで」
影正の存在を意識して、すぐには本題に入れない。それに、久々に対面した元守護人を、あっさり手放したくなかった。
それにしても道場は冷える。優輝の立つ板張りの床下から、氷のような冷気が立ち上る。
影美が場所を変える気配はない。優輝も、いかに暖かくとも、居間に集っているであろう青柳家の面々を前にしては、本題を持ち出す気になれない。
影正だけは、守護人の引き継ぎにより、以前から事情に通じていたのを思い出した。それで、優輝は口を開いた。
「母を見舞ってくれて、ありがとう。実は、お前が来た時、起きていた」
「そんな気もしておりました」
影美は頷いた。あの時仮に、優輝を無理矢理病室から出したとしたら、母は気を削がれて口を噤んだだろう。その結果、気掛かりを残したまま死んだに違いない。
優輝が話を知っても、他に漏らす恐れはない。そもそも息子に知られたくなかった話である。寝ているから、と敢えて優輝を放置した影美の判断は適切だった。改めて、亡き母の抱えていた傷を思いやる。
「あれは、母の話は本当だったのだな。だから、利輝と花鈴の時に、自分の血のせいだと言ったのか」
「そうでしたか」
影美の相槌は、優輝の子ども達の間に起きた出来事を、既に知っているようにも受け取れた。知る筈はなかったが、影美にならば知られても構わなかった。
母と同様に、利輝や恵梨花は、死ぬまで深い傷を抱えて生きねばなるまい。事を企てたと思しき花鈴も、もしかしたら自分の行為を後悔しているかもしれない。
火葬場で兄を追った姿を見、そして娘が親しく付き合う相手の身上を知るにつけ、優輝は娘の現在の心境をそのように捉えるようになった。そうであって欲しい、という親の希望に過ぎないかもしれないが。
いずれにしても、彼らには、影美のような良き仲介者が現れることを期待できない。今更ながら、やりきれない気持ちになる。
「ですから、せめて私たちは、潔白でなければならないのです」
心を読み取ったような影美の言葉が、耳を打った。そうあるべきだった。
かといって堂々潔白を主張するほど、優輝は鉄面皮ではない。
過去の記憶が次々と蘇る。押さえつけていた分、勢いよく溢れ出す懐かしさの奔流に、優輝は目眩を覚えた。何かに縋りたい。目の前に、そのよすがが立っている。
「しかし、俺は」
「いいえ。優輝様は、無謬です。大丈夫」
元守護人の温かい声が、優輝を現在に引き戻した。どうにか衝動を堪えたのには、老いた肉体の鈍りも与っていた。
「そうか。ありがとう、影美」
自然に頭を垂れていた。影美も礼を返す。
頭を上げたところで、影正の存在を思い出した。振り向くと、息子の元守護人は、変わらぬ姿勢でペンを動かしていた。




