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利輝と影正  作者: 在江
第六章
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3 古いカルテ

 向坂一志は、藤野和江のカルテを端から読み込んでいた。

 昼間は大変だった。和江が担ぎ込まれたのであった。


 もともと和江は丈夫な質で、例の花鈴と利輝の件ではさすがに寝込んだものの、他には大病を患った記憶が主治医の一志にもなかった。単に病院嫌いなだけかもしれないが、元守護人だけのことはあると言ってもよかった。


 満六十歳以上の者は、町の保健センターで定期健康診断を無料で受けられる。和江も毎年受診している筈であった。


 異常があれば、必ず一志の耳に入る。和江はもう喜寿に手の届く年齢であるとはいえ、一志の両親よりは若い。両親はぴんぴんしている。


 恵梨花からの急報は、寝耳に水であった。一志は和江の容態を聞き、手が離せないこともあって、ひとまず恵梨花に連れてこさせた。


 その頃には和江は自力で歩けるくらい回復しており、診察も受けずに帰りたそうな素振りであった。しかし、一志は間近に顔を見て、胸騒ぎを覚えた。


 「よい機会ですから、ちゃんとした病院で検査を受けておきましょう。先方には、今から電話で話しておきますから」


 一志はその場で紹介状を書き、恵梨花と渋る和江を町の病院へ行かせた。

 約束通り、当日中の検査予約を取り付けた。若い頃働いていた時の人脈が、未だに生きていた。


 検査結果が出るまでには、早くても十日ほどかかる。

 結果次第でカルテの写しを送る場合も考え、まずは自分で目を通すことにしたのである。


 和江のカルテは、戦中に始まり、古くなるほど紙が厚みを帯びている。


 向坂医院では患者の診療記録を、専用のパソコンで管理している。向坂家の三人の子ども達も例外ではない。

 ただし、藤野家と青柳家に属するカルテだけは昔から続く紙のまま、まとめて保管している。


 それは、向坂家の家長がついこの間まで特殊な仕事を行わねばならなかったからで、引退した守護人の検死や場合によっては死因の隠蔽など、万が一にも外に漏らしたくない厄介な仕事であった。


 無論そのような仕事は滅多にない。向坂家では代々、事が起きた都度、符牒で記される昔の記録を参照した。

 そのため必要な部分だけ取り外し、持ち運びに便利な形で古い記録が丸ごと残っていた。


 時代が下るにつれて減りはしたが、故人のカルテを紐解けば、急性薬物中毒やら複雑骨折やら疲労骨折やらで運び込まれた記録が盛り沢山で、さながら事故博覧会の様相を呈していた。

 よくぞ治したものだと先祖の腕前を賞賛したいほどの事例がある。決して公表はできないが。


 全て青柳家の長子に係る記録で、それも十歳までの間に集中していた。守護人の修行というのは斯くも酷なのである。幸い優輝の英断によって、一志は中でも最も厄介な仕事を体験せずに済んでいる。


 将来一志の跡を継ぐ子ども達も、()()仕事をせずに済むのだ。


 一方、藤野家には青柳家に見られるような特殊な事例はないものの、もともと向坂家をこの地に招聘した縁もあって、特別扱いしたまま現在まで続いている。


 医療史として何がしかの価値があるかもしれないが、世間に知られたくない事項も多い。自分の代のうちに整理処分しようと思いつつ、日々の仕事に忙殺され延び延びとなっている。


 一志が子どもの頃は、自宅の庭に穴を掘ってごみを燃やすのが当たり前だった。今では灰をまき散らして環境を汚染する、と非常識な行いになった。

 脱穀の後で籾殻を焼くことさえも批判されるご時世である。


 両家のカルテは、トラックに積み込み直接清掃工場へ搬入するほどの量でもないが、一つ一つシュレッダーにかける手間を考えると、なかなか始められない。


 古い記録は和紙に墨で書かれた物もあり、シュレッダーでは裁断が難しい。燃やせなければ、手作業で細かくしなければならない。考えるだけで取りかかる気力が萎えた。


 和江のカルテにも、守護人らしい怪我の記録が幾つかあった。名前が本来の和影で表記されている。見慣れない筆跡は、亡くなった祖父の手であろう。途中から、見覚えた父玄一の筆跡に変わる。

 引退するまでは父が和江の診察を担当していた。引き継いだ時、一志は特段持病もない和江のカルテを細かく確認しなかった。


 和江のカルテをこれほど丁寧に見るのは、初めてだった。途中、まとまって抜け落ちた箇所があることにも初めて気付いた。和江が二十歳前後の記録である。

 とりあえず残りの部分に目を通した。求める情報はなかった。和江に近しい血縁のカルテも取り出して確認するが、無駄足であった。


 そうなると、脱落した記録が妙に気になった。一志は両親のいる離れを訪ねた。


 母がテレビを見ている横で、父は本を読んでいたようであった。突然の息子の来訪にも驚かない。


 「和江さんが倒れたそうじゃないか。町の病院へ行かせるなんて、よっぽど悪いのか」


 両親は全く医院に足を踏み入れないのに、昼間の騒ぎを知っていた。妻が耳に入れたに違いない。


 「念のためです。それで、ちょっと聞きたいことがあって」

 「ふうん。じゃあ、そっちへ行って話そうか」


 テレビ鑑賞中の母に気兼ねしてか、玄一は一志を隣室へ誘った。ひどく遠慮したものである。現役時代の父からは想像できない。自分も引退したら、妻に遠慮して生きるのか。一志は漠とした不安を覚えた。


 尤も、母親に寝室で聞き耳を立てられるよりは、テレビを見せておいた方が父に都合がよいのかもしれない。落ち着いたところで、一志は和江の疑わしい病状を説明しながら、持参したカルテの欠落箇所を見せた。


 「そうそう。うっかりしとった。そのうち戻すつもりではおったんだがな」


 玄一はぶつぶつ独り言を呟きながら、とても書類が入っているとは思われない場所をごそごそ探った後、茶色に変色した封筒を取り出した。中から、カルテの抜けた部分がそっくり姿を現した。後は家へ戻って読めば済む話であった。


 一志の目は、退色したインクの文字に吸い寄せられた。ここで読むのを止めようと思う側から、文字が勝手に飛び込んでくる。古いカルテは紙同士がくっついてしまって、一志は汗で湿り気を帯びた指で剥がすのももどかしく、その場で最後まで読み通した。


 「これは皆知っていたの。一体誰に?」

 「知らんよ。守秘義務があるからな」


 父は素っ気なく答えた。玄一は息子が和江のカルテを読んでいる間、じっと様子を観察していた。

 一志の体験をも見通されているようであった。一志は思わず自分の体験を打ち明けそうになった。同じような経験をした父に意見を求めたかった。しかし、守秘義務という言葉がそれを押し留めた。



 段々日が長くなってきてはいるが、花鈴が帰宅する時間まで留まることはなく、いつも月が昇っている。夜道は暗いと言っても、月明かりがあればかなり視界が利く。ただ、陰になっている箇所は別で、全体の形が分かるばかりである。

 だから花鈴が道端に立つ石碑の陰に宇宿がいることに気付いたのは、かなり近付いてからのことであった。驚いて反射的にブレーキをかけた。スピードを上げて通り過ぎればよかった、と思いついた時には宇宿が目の前まで来ていた。


 「最近、全然電話に出てくれないから、どうしているかと思って。あんまりしつこく電話するのも気が引けてさ」


 宇宿は相変わらず屈託のない表情で話しかけてきた。気が引けるのは、花鈴の方であった。楠根と二人で話して以来、宇宿からかかってきた電話に出られなくなっていた。

 楠根と顔を合わせるのも気が重く、コンビニエンスストアにも行っていない。


 「コンビニ辞めたんだってね」


 電話に出ない理由を直接問い質されないのをいいことに、話を逸らす。宇宿の表情は変わらず、躊躇いもなく頷いた。


 「うん。原付免許取って、配達の仕事をしているんだ。時給は減ったけれど、時間の融通が利くから。もう少しお金が貯まったら、原付を買うんだ。そうしたら、新聞配達も楽になる。バイクに一度乗ったら、自転車に乗るのが億劫になるよ」

 「そうなんだ」


 花鈴はがっかりした。楠根を避けるために辞めたのではないか、とどこかで期待していたことに気付く。その考えは、一体何を意味するのか。


 「もしかして、楠根寂凛がどうかしたの。何か言われた?」


 自分の考えに没頭して沈黙が続いたのか、宇宿が唐突に話題を変えた。花鈴は首を振って否定した。言葉だけを取り上げれば、大して酷いことでもない。


 兄と仲良くしたいから、近付くのを遠慮して欲しいと言われただけである。それだけのことをわざわざ宇宿に伝えるのは、告げ口するようで嫌だった。それ以上に、花鈴が楠根と話していて感じた違和感というか嫌悪感というか、名状しがたい感情を説明できないことがもどかしかった。


 加えて、宇宿が異母妹の楠根と親しく接するところを見るのも嫌だった。実際は、花鈴が見る限り、宇宿はむしろ楠根と一定の距離を置こうとしているように思われた。


 今の異母妹の呼び方も花鈴の見方が正しいことを証している。それでいて花鈴は、宇宿が楠根を悪く言ったとしても、反発を覚える予感を抱いていた。


 明らかに矛盾である。花鈴は自分の混乱した感情を収めるには、宇宿と楠根の兄妹に関わらないことが一番だと悟っていたが、宇宿との関係を断ちたくなかった。ここでも矛盾が発生している。つまるところ、矛盾が起きる元凶を花鈴自身が抱えていた。


 「ごめんね。近頃お祖母様の具合が悪くて、落ち着かないの」


 花鈴はため息と共に言った。本当はそれほど悪いようには聞いていなかった。祖母が倒れて町の病院へ行ったと聞いた時には驚いたが、祖母はその日のうちに帰ってきて、その後も普通に過ごしていた。

 年も年である上に、調子が悪いことは事実である。それも、正確には花鈴が起こした利輝との例の事件以来であることを思うと、自然とため息も出た。


 「それは心配だろうね」


 宇宿は素直に同情し、慰めの言葉をかけたので、却って花鈴は気が咎めた。後は二人で途中まで自転車を並べて帰る間も、宇宿は差し障りのない話題を選んだ。適当な相槌を打ちながら、花鈴は口先まで出かかる質問を押さえ込んだ。

 宇宿は異母妹をどう思っているのだろうか。もし楠根が本当の妹であった場合と違いがあるのだろうか。楠根の宇宿に対する感情が正確にはどのようなもので、それは世間では普通のことなのだろうか。


 そして花鈴の利輝に対する感情は、藤野家の特殊な習慣を考えても尚、普通とは言えないのだろうか。事実上家を追い出された兄は、今ごろどうしているのだろう。花鈴は久々に、利輝を思った。別人の目を借りたような、平静な気持ちで兄を思い起こせることに、自分でも驚きを感じた。

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