2 大姑の思い出
恵梨花は家の中で、車の停まる音を聞いた。畑仕事に出ていた和江が、戻ってきたに違いない。
時刻は昼時を少し過ぎている。帰る時分と心得ていた。
午前中の家事は一通り済ませ、昼食の準備も終えている。すぐに家の中へ入らないのは、土にまみれた腕や道具を、外の蛇口で洗っているからであろう。
姑が席に着いたらすぐ食事を始められるように、恵梨花は卓に皿を並べ始めた。
恵梨花は今、農作業をほとんどしていない。
嫁いだ頃は、姑に気を遣って随分手伝った。つもりだったが、振り返って平静に考えてみると、子どもの手伝い程度だったようにも思う。
優輝の祖母である福が恵梨花を庇い、大変なところを上手く引き受けていた。
福は、和江の姑に当たる。体格に始まって、何もかも和江と対照的であった。小柄で可愛らしいお婆さんという形容が似合う、ひたすら優しい人だった。
公平に考えるならば、家政の権限をとうに和江に譲り渡して、余裕があったのであろう。嫁入りしたばかりで習慣の違いに戸惑うことも多かった恵梨花には、よい避難場所と感じられた。
しかしながら、その人生には恵梨花が思いもよらない苦労が伴っていた。
「輝重様は一輝の顔を見ないまま亡くなってしまったからねえ」
輝重は優輝の祖父に当たり、すなわち福の夫である。福は自分の夫に様をつけて呼んだ。何でも、福は輝重の下宿先の娘だった縁で、戦争のどさくさに紛れて結婚したようなもので、しかも新婚生活も始めぬうちに輝重が徴兵されて戦死したので、今でも夫というより憧れの人のように感じられるらしかった。
「当時大学生でいらしたのだけれども、学徒出陣でねえ。輝重様は理系だから大丈夫だと思っていたのに、軍艦や爆弾を作る一部の学生さん以外は、皆招集されることになって。輝重様は農業をよくするための学問をなさっていらして、やっぱり赤紙が来てしまったのよ」
「あかがみ、ですか」
赤紙を知らない恵梨花の脳裏に、赤い折り紙が浮かぶ。そんな紙に、軍隊へ入るよう命令が印刷されていたとすると、見るからにおどろおどろしく、恐ろしい。
実際は薄桃色の紙と知った後でも、鮮血で染めた召集令状の印象は恵梨花の記憶に残った。
「戦争の頃は徴兵制で、男の人は皆軍隊へ行かなければならなかったの。それで、軍隊へ出頭しなさいという命令を書いた召集令状のことを、赤紙って呼んでいたのよ。紙が赤味を帯びていたから。男の人ばかりではないわ。国民皆兵と言って、軍隊に入れない女の人も兵隊になったつもりで、銃後の守りとして防空壕を掘る手伝い、バケツリレーに竹槍訓練までしたものよ。B29から焼夷弾を雨霰と落とされたら、バケツや竹槍なんかで対抗できる訳ないのに」
「後から思い出せば馬鹿みたいな話だけれど、当時は疑いもせずに、言われた通りの事をしていたわ。スパイ探しというのも銃後の重要な仕事とされていたから、疑わしい言動をしないように気をつけなくてはならなかったの。五人組の仲間内でも油断できなかった。疑われないようにするには、心の底から信じるのが一番楽でしょう」
「そうしていても、力のある人から睨まれると、重箱の隅をつついてわざと悪く解釈したり、終いには、ありもしない容疑をでっちあげたりして、密告されることもあった。密告した人には報奨が出たの。密告された人は憲兵に連れ去られて、二度と戻ってこなかった。戦争が終わっても、消息が知れなかった」
国民海兵はともかく、十五の守りとか、ボークー号とか、タケヤリ訓練とか、少尉団とか、歴史に興味のない恵梨花にはちんぷんかんぷんであった。それにバケツリレーなら今でも町民の運動会でやっている。結構盛り上がる、ということは、楽しいのである。
第二次世界大戦の中に日中戦争と日米戦争が含まれることは、中学校か高校ぐらいの歴史の授業で聞いたような記憶があるけれども、そもそも明治維新以降の話はほとんど素通りであった。
短大では歴史の授業は卒業に関係ないので取らなかったし、入社試験対策で多少勉強したかもしれないが、その辺りはまるで記憶にない。
社会人になって働いている間も、所謂戦時中の話が出ることはなかった。早くに亡くなった伊奈の祖父母からも、戦時中の話を聞いたことがない。両親は共に戦後の生まれであった。恵梨花の戸惑いを知ってか知らずか、福は話し続けた。
思い返せば、自分の側に留めることで、恵梨花の体を休ませていたのだろう。それに、福も聞き手を求めていた。
「空襲で家は焼けるし、母も死んでしまった。思い出の品も皆なくしてしまった。一輝を守らなくてはいけない。逃げるのに精一杯だったから仕方がないんだ、と思っても、あの時まだ生きていた人達、助けを求めた人達を見捨ててしまった。そういう思いがずっと残っていて、こんな年寄りになっても夢に出てくる」
「夢の中では、あの人達は全然年を取っていない。煤や酷い火傷で、喉もやられていて声も潰れていて、見たって聞いたって年なんか分かる筈もないのに、夢の中ではあの人達が若いままだっていうことが、私には分かるのよ」
「そうして自分だけ逃げて生き延びた挙げ句、どうやって生活したらよいのか一輝を抱いて途方に暮れたわ。本当にどうしてよいのかわからなかった。下宿をしていた時に付き合いのあった人達が助けてくれたから、お蓮さんが迎えにくるまでどうにか生きられたのよ」
「オレンさんですか」
実のところ、嫁入り当初は姑の名前もうろ覚えだった恵梨花は、名前に素早く反応した。婚家だけならまだしも、藤野家には青柳家や向坂家といった親戚同様の付き合いをしている家があり、覚えるべき名が多かった。
「お蓮さんは、杏次郎さんのお母様よ。毅然としていて、それでいて優しい立派な人だったわ。戸籍や何かの書類のことも、てきぱきと全部始末をつけて、ここまで連れてきてくれたの」
「お蓮さんが私を見つけてくれなかったら、優輝も利輝も花鈴も生まれなかった。それがよかったのかどうかわからない、と思っている? 少なくとも一輝が好きな人と一緒になれるまで成長したのを見る事ができて、私はよかったと思っているわ。あのまま東京に残っていたら、母子共に死に絶えていたかもしれないもの」
福は花鈴が小学二年生の時に亡くなった。眠っている間に往生したらしい。その人柄にふさわしく、まさに、眠るように静かな死であった。
一輝と結婚した和江も年を取るにつれて、丸くなった。一度、恵梨花が花鈴を連れて実家へ帰ってから遠慮しているのは確かであるが、満更遠慮故ばかりでもない。
表の庭、それも駐車場を兼ねているので実際には大した面積ではない場所に花を植えて世話をするのは恵梨花の役目であるが、見栄えがして手のかからない種類を選んでいるので、草むしり以外ほとんど手を入れていない。その草むしりでさえ、近年は暇だからと和江がしている。
夫の優輝が作物を変更したり人手を頼んだりして、手間がかからなくなった分、余暇の時間が増えたのは本当である。和江が出かけていた畑も、自家用の野菜を作るためのもので、大袈裟に言えば、嫌になったらうっちゃっておいても構わないのである。
食卓の用意は整ったが、和江はなかなか戻らない。今はまだ収穫物の出る時期でもないから、例えば芋洗いのために時間がかかっているということは考えられない。
年を取って動きが鈍ったとはいえ、さすがに遅すぎた。恵梨花は、もしや車の音を聞き違えたかと思い、玄関から外へ出てみた。
軽トラックは確かに駐車していた。間違いなく、家の車である。しかし、いつもの場所ではなく、門を入ったすぐの所で停まっていた。そのままにしておけば、後から帰る優輝の車が入れない。
「あら」
いやだわ、お義母様ったら惚けが始まっちゃったのかしら、という冗談のつもりでも聞かれたら険悪になりかねない言葉を習慣で飲み込み、恵梨花は運転席まで歩いた。
「お義母様!」
ドアを開け、タイヤを踏み台にして乗り込んだ。鍵がかかっていなくて幸いだった。軽トラックの狭い座席に、和江が長々と横たわっていた。両手に軍手を嵌めたままである。恵梨花の呼びかけに、姑はうっすらと目を開けた。
「ああ。恵梨花さん。大丈夫。ちょっと、休んでから、入ろうと、思って」
起き上がろうとするが、ただでさえ狭い車内に恵梨花も入り込んでいて、上手くいかない。それ以前に、様子がおかしかった。
和江を助け起こそうとした恵梨花の脳裏に、様々な考えがよぎった。もしかしたら、動かさない方がよいのかもしれない。あるいは、このまますぐに病院へ運ばなければならないかもしれない。それならば、苦労して一旦畳に寝かせるのは時間の無駄になる。
「お義母様。お医者さんを呼びますから、このまま少しここで休んでいてくださいね。すぐ戻りますから」
「悪いわね」
和江はもう逆らわなかった。恵梨花は軽トラックのドアを開け放したまま、家に駆け込んだ。
まず夫の顔が浮かんだが、向坂医院に電話をする方が先だった。既に番号を登録してあるので、数個ボタンを押すだけでつながる。受話器を取り、電話機のボタンを押す恵梨花の手は震えた。




