4 影正の部屋
利輝がプールから上がってシャワーを浴びた後ロッカーへ行くと、既に影正がいてスマートフォンを切るところだった。いつもながら行動が素早い。
すっかり着替え終わっていて、湿り気を帯びた髪の毛が揺れていなければ、とてもプールへ入っていたとは思えない。
「弥由が夕飯をご一緒したいと申しておりますが」
「え。弥由ちゃん、こっちに来ているのか」
「一週間ほどの予定で、何日か前から次由さんの部屋に泊まっていました」
「君、知っていたのか」
はい、と守護人は答えた。主は面白くない。守護人の部下がどのように移動しようと、利輝までが知る必要はない。しかし、折角故郷から知り合いが上京しているのだったら、ひと言教えてもよいのではないかと思った。
途端に、青柳家に居候していた時分、弥由が不自然な素振りを見せたことを思い出した。利輝が会おうと思っても、弥由も会いたいとは限らない。
「来春、こちらの学校へ進学したく、下調べのために上京したのですが、希望の学校を一通り回って一段落したそうです。利輝様がお疲れでなければ、外でも出前でも自炊でも構わないからご一緒したいとのことです」
利輝の心を読み取ったように、影正が付け加えた。避けられていたのではないと知り、情けなくもほっとする。
「もちろん、いいに決まっている」
漸く着替えを終えて、利輝は影正を従え更衣室を出た。
まだ日は高いが、夕刻である。ご馳走を作って弥由を迎えるならば、今から材料を買って用意した方がよい。
利輝は影正に言って、プールの荷物を抱えたままマンションに近いスーパーへ向かった。利輝が本格的に料理を始めたのは、大学へ入ってからである。
きっかけは、いくら店を変えても、外食やコンビニ食ばかりでは飽きてしまったためであった。
影正の指導よろしきを得て、今では一通りのことができるようになった。自分だけが食べるために作るよりも、人に食べさせるために作る方が楽しいに決まっている。
「やあ、久しぶり」
門を出るところで、同期の志和に声をかけられた。相手は手ぶらである。構内の本屋へ行くところだと言った。
「合宿、お前らも行くんだよな」
「行くよ。ああ、もうすぐだな」
志和とは司法試験を目指す勉強会のサークルで知り合った。当然法学部であるが、それまで言葉を交わしたことがなかった。勉強会では合宿まで行うことになっていて、同じ法律系サークルである法律相談部とは対照的な気風とされていた。
利輝は相談部には入っていないので、そちらの実態を知らない。
互いに健闘を祈って別れた。半年あまりにわたって行われる司法試験は、十二分な体力気力を必要とする。落ち込んでばかりいられなかった。
テーブルに所狭しと並べられた料理に、弥由は心底から賞賛を送った。
「うわあすごい。これ全部利輝さんが作ったの」
「影正に手伝ってもらったけれどね」
「ほんのお手伝いです」
謙遜する利輝は、それでも褒められて満更でもなさそうだった。弥由とて、家にいる時は母を手伝って台所に立つこともあるが、自力でこれだけ作れるかと問われれば、正直なところ自信がない。
中華料理である。炒飯に餃子に青椒肉絲に春雨スープ、デザートとして杏仁豆腐まであった。
三人でめいめい、好きな分だけ皿へ取り分けて食べる。炒飯はぱらりとして卵の黄色も鮮やかである。餃子の皮はぱりっとして、中身の肉の旨味をたっぷり包んでいる。青椒肉絲のピーマンはしゃきしゃきした食感を残して味わいがある。
食卓での会話は弾んだ。弥由は利輝の問いに答えて、家での出来事から近所の知りうる限りの動向から、果ては聞かれもしないのに一由や次由の生活まで喋った。
ただし、示し合わせたように花鈴だけは誰も話題に上らせなかった。
濃厚な杏仁豆腐をウーロン茶でさっぱりと流し込み、弥由はお腹が膨れるまで食べた。後には空の皿が山積みである。
「あの、お願いがあるんですけど」
やおら弥由は、しおらしい態度で影正に話しかけた。早くも食卓を片付け始めた弥由の主は、手を止めて部下を見た。取り立てて冷たい視線ではないものの、言い遅れた後ろめたさで、弥由の顔に緊張が漲る。
「一晩泊めてもらえませんか」
反問される前に、息を思い切り吸い込み一気に言い立てる。
「次兄ちゃん、どうしても断れない学部の仕事を頼まれて、いつ帰れるかわからないんです。一兄ちゃんは学会に行ったまま、旅行に出てしまって帰ってこないし。私、明日帰らなくてはいけないのに」
「では、私の部屋に泊まればよい」
影正は拍子抜けするくらい、あっさりと許可した。思わず双手を上げる弥由をよそに、利輝に向き直る。
「利輝様、私を一晩泊めてもらえませんか」
「いいよ」
期待通りに事が運び、弥由はさっきまで緊張していた分だけ気持ちが高揚した。
「一件落着。じゃあ利輝さん。私が皿洗いするね」
「では、私は部屋を片付けて、泊まり仕度をして参ります」
弥由が盆代わりのトレイに皿を載せ始めると、影正が席を立った。利輝は食器を運ぶだけ手伝うと、皿洗いを弥由に任せ、部屋の片付けに入った。
「あっ」
「どうした?」
短い悲鳴に利輝が腰を浮かすと、声の主である弥由が台所から顔を出した。手に先程使ったグラスを持っている。泡まみれのそれに、亀裂が入っているのが見えた。
「グラス、落としちゃった」
利輝は立ち上がって駆け寄り、弥由の手からグラスを取り上げると、安全なところへ置いてその両手を取った。やはり泡まみれの白い手をタオルで拭ったが、器用そうな細長い指にも掌にも、見たところ傷一つない。
「大丈夫? 痛いところない?」
「あ~私の方は、平気。でもグラスにひび入っちゃった。割れなかったから、破片は落ちていないと思うんだけど、ごめんね」
弥由は手を取られたまま、済まなさそうでもなく、軽く謝った。
利輝は手を拭いたタオルをそのままグラスに使い、改めて検分した。縁から半分くらいまで、縦方向に鳥の足のようなひびが入っている。欠けた部分はなく、グラスは原形を保っている。
シンクをざっと見たところ、ガラスが飛び散った跡はなかった。
「怪我がなかったのなら、よかった。グラスはまだあるし、気にしなくていいよ」
「影正様には内緒にしてよ」
「はいはい」
ごみの日までにはまだ間がある。後で新聞紙に包んで捨てようと思い、利輝は差し当たり邪魔にならない場所へグラスを置いた。すぐ考え直す。
今夜は影正が泊まりにくる。割れたグラスを見つければ、すぐに弥由の仕業と判るだろう。
グラスを割ったぐらいで影正が怒るとも思えないが、小言を言う可能性はある。
気分よく再会した、この雰囲気を損ねたくなかった。利輝は食器棚の中へグラスを隠した。弥由は既に台所へ戻って、水仕事に集中していた。
影正が利輝の部屋へ去ると、弥由は早速主の部屋を改めて見て回った。
学生用の部屋であるから、ユニットバスと洋間一間に台所があるだけで、大して広くもない。変わっているのは、部屋の一隅が仕切ってあって、防音室になっていることであった。
ピアノを置いたら満杯になる大きさである。青柳家にある影正の部屋と違って、ここにはモデルルームのように物がなかった。
地元の部屋は先祖代々受け継いだ品、特に本が多いためにごちゃごちゃと見えるのであって、本来の影正の持ち物だけ取り出した結果がこの部屋なのだろう。
台所の流しがあまりにぴかぴかで、自炊しないのかと思って弥由が戸棚や冷蔵庫を片端から開けたら、使いかけの調味料や食材がきちんと整頓されていた。
好きに使ってよい、とお墨付きをもらったのをいいことに、弥由はタンスから何から全部開けてみた。
どこもきちんと整頓されていた。一分の隙もない。影正の性格そのものを表しているようだった。
ふと防音室を開けてみた。灯りをつけると、変わった形のギターが置いてあることに気付いた。
近付いてみる。まるで、ギターをモチーフにした置物のようであった。影正の性格上、こんなかさばる置物を買う筈はない。防音室にあるところから推しても、これは楽器である。弥由は足元にある物に気がついて、もしや説明書かと拾い上げた。それは丸めた布のような物で、絵巻物を解くようにばさりと床へ落ち広がった。
「何これ」
ピアノの鍵盤が描かれていた。弥由は床にある他の物も取り上げた。こちらはもう少し複雑な形をしていた。
こちらは大きさの異なる円形であったが、フリスビーと違って裏側中央に接続穴がある。運良く説明書を見つけて読むと、それらは全て楽器であった。
電子機器で音を再現し、ヘッドホンを繋げば周囲に音を漏らさず演奏できる代物である。円形の方は、ドラムセットであった。
防音室があるならば、本物の楽器を使ってよさそうなものであるが、ここへ引っ越す前の二年間は普通の部屋に住んでいたことでもあるし、この先引っ越すことを考えても、これだけの楽器を全部本物にして運び歩くのは大変である。
「こんな物があるんだ」
弥由は時間も場所も忘れ、早速ピアノをセットした。ちょうど、手頃な高さの台があった。
幼い頃に習った簡単な曲を弾いてみる。ちゃんとピアノの音がヘッドホンから流れた。わざと外しても、ちゃんと外した音が聞こえた。
予め仕込んでおいた曲を流すのではなく、本当に弾いた音を出しているのだ。鍵盤を押す時に感じる反発力がない分、指に物足りなさが残ったが、どこでも弾けることを考えれば、まずまず満足であった。
弥由は調子に乗って、段々滑らかになる指が赴くままに幾つかの曲を弾いた。
「弥由、返事をしろ」
いきなりヘッドホンが外され、軽くなった耳に影正の声が突き刺さった。不意をつかれて、うわっと間抜けな声を上げてしまう。遅まきながら口に手を当て振り向くと、主の影正がヘッドホンを持って立っていた。その背後には、利輝の姿も見える。
「チェーンをかけるよう言った筈だが」
「すみません、うっかりしていました。電話してくだされば、よかったのに」
「電話をかけて、スマホにもかけて、チャイムにもノックにも反応がないから来た」
「すみません」
「何か事故にでもあったかと心配になったんだ」
小さくなる弥由に、利輝が慰めるように声をかける。影正が後ろを向いた。




