3 向坂家の会食
向坂一志が食卓につくと、二人分の夕食しか用意されていなかった。弥由の姿は影も形もない。一志は向かい合って席についた妻を見た。娘の到着を待つ様子もなく、食べ始めようとしている。食事は一志と妻の分であった。
「弥由は吹奏楽か」
「東京へ行きました」
妻は平然として答えた。一志の箸が止まった。弥由は確かに昼まで家にいた。一緒に昼ご飯を食べたのだから、間違いない。それから出かけたとすると、今日中に帰宅するつもりがない、ということである。
「聞いていないぞ。誰と行ったんだ」
一志は箸を置いた。娘は高校三年生の所謂お年頃である。やはり年頃の血に飢えた狼どもに誘惑されてもおかしくない。奴らは何もしないから、と誘っておいて、いざとなると一緒に泊まるのに何もしないわけない、お前も知っていて泊まったんだろ、などと豹変するのである。
妻は夫をちらりと見ただけで、箸を休めもしなかった。子どもたちの前では一家の長として夫を立てる代わり、夫婦二人きりになると態度が大きくなるように一志には感じられた。
「一人に決まっています。一由か次由の部屋に泊めてもらうのよ。何を馬鹿なこと考えているの」
なんだそうか、と一志は気が抜けた。急に空腹を感じて、箸を取る。妻の話によると、夏休みを利用して一週間ばかり行ってくるとのことであった。アルバイトでこつこつ貯めた金を持ち出したらしい。
「受験生なのに、暢気な奴だなあ」
「受験生だから、行ったのよ」
妻の語調に裏があるのを感じ取り、一志は目で問いかけた。妻は反応しない。
「弥由は東京へ何しに行ったんだ」
「学校の下見」
再び一志の箸が止まった。妻はまたわざとらしいため息をついた。
「学校というのは、仕立て屋のことか。大学じゃなくて?」
「専門学校だけでなくて、美大や家政大も参考に見てくればいい、とは言ったわよ」
「全く、親の気も知らないで」
「一由はね、航海士になりたかったんですよ」
「船乗りだって? 馬鹿馬鹿しい。海もないのに」
唐突な妻の言葉に、一志は目をみはった。既に食卓は忘れ去られている。妻も早く片付けるのを諦めたらしい。
「それを家の決まりだからって、あなたが医学部へ行かせたのよ。でも、私も船乗りなんて命がけの職業に就かせるのは心配だったから、それでよかったと思っているけれど」
「それで海外へ行きたいなぞとだだをこねたのか」
大学進学前のささやかなひと悶着を一志は思い起こした。結局は父の説得が功を奏し、長男を医学部へ押し込むことができた。六年間医学部で勉強すれば、考えも変わるだろう。
万が一のために次男を医学部へ送り込んである。しかし、一志の満足感はつかの間しか続かなかった。
「次由だって、あれは画家になりたかったんです」
「絵描き! だって、そんな様子は全然」
第二の爆弾が落とされた。一志は開いた口が塞がらなかった。そんな夫を尻目に、妻は箸も休めず話を続けた。
「絵描きだなんて古くさい。今はコンピュータグラフィックスデザイナーとかいうらしいわ。とにかく、次由はあなたの希望を汲んで医学部へ行ったの。でも、そのグラ何とかで食べて行くのはきっと難しいから、それはそれでよかったと私も思うわ。医者をしながら小説を書いたり絵を描いたりする人は珍しくないもの。次由がどうしてもその道に進みたいのなら、同じようにすればいいのよ」
一志は脱力する思いを味わった。妻ばかりが子どもたちの希望を知っていた、ということも情けなく思った。
「船乗りに絵描きに仕立て屋だって。浮世離れにもほどがある」
「弥由が洋裁を習いたいというのを浮世離れというのは、おかしいわ。むしろ、なかなかよく考えたと思う。ファッションデザイナーで派手に成功するのは夢のまた夢でしょうけれど、手に職さえあれば、こちらへ戻っても仕事を見つけることができるもの。花嫁修業の役にも立つし、子育てが一段落してから自分の好きな分だけ働くこともできるわ。青柳家との取り決めでは、どんな職業を選んでも構わないのでしょ? だったら一人くらい、好きなことをさせてみたらどうかしら」
「何も東京に行かなくたって」
一志は未練がましく言った。ただでさえいつか嫁に行くのに、末娘がもう家を出ようとしているのが不満なのである。自分でもわかっていた。
次由が家に戻り、電源を入れるなり着信があった。病院へ顔を出した際、スマートフォンの電源を切ったままであった。相手は兄の一由である。その第一声を聞いて、次由は思わず問い返した。
「弥由が来たって。何しに?」
「学校の下見だとさ。泊めてくれなければ、渋谷へ行って寝床を探すって」
「松濤に知り合いはいないでしょう」
「モアイ像と一緒に寝る、と言い張っているぞ」
そんな冗談を言ってみても始まらない。兄の用件は、学会へ行くので妹を泊められないから、次由が引き受けろというものであった。
一由は医学部を無事卒業して国家試験にも合格し、引き続き同じ大学病院で研修医として働いており、学生時代より更に無理の利かない身の上となっている。承知するより仕方がない。それに、弥由なら喜んで渋谷へ行きかねない。
迎えに行くついでに夕飯を三人で食べることにした。ざっと仕度をして出かけようとすると、今度は母から電話があった。
「新学期に間に合うように、気が済むまで遊ばせてあげてちょうだい」
相変わらず鷹揚である。しかし、母は手短に父と弥由が進路問題で対立していることをしっかり付け加えた。
兄二人と違って、妹は頑固に自分の意志を通すつもりらしい。
次由も兄一由の多忙ぶりを目の当りにすると、同じ職業を選んでよかったものか疑問が湧き起こることもあるが、弥由のこととなるとまた別問題である。
若い女の一人暮らしが如何に危険か、色々見聞きしているだけに、可愛い妹が都会の荒波に揉まれるのを見るのは忍びない。親元にいた方が断然安心である。
尤も弥由が頑固なのは昔からで、一度言い出したからには梃でも動かない性分であることも承知していた。
例外は、主の青柳影正から諭された場合である。両親から頼まれた訳でもないが、次由は弥由の上京を諦めさせるよう、影正から言ってもらおうかと真剣に検討した。
結論は電車から降りる前に出た。とてもそんなことは頼めない。
自分も弥由も影正に仕える身である。その影正は現在東京に住んでいて、同じ東京に住む次由が医学部生として多忙であるのを慮ってか、ほとんど仕事を頼まれることがない。
人手不足を感じているならば、弥由の上京を歓迎こそしても、反対はするまい。
ろくに仕事をしない次由が反対するのは、図々しいにもほどがあった。
他方、弥由が地元に留まることにもメリットはある。影正とその主である利輝が帰省した際に、容易に便宜を図ることができる。そして影正たちが東京にいながらにして、地元の情報を集めたい場合にも重宝である。どちらの利を取るか、判断するのは影正しかいない。
弥由に会うのは数ヶ月ぶりであった。一由と会うのも、ほとんど同じくらいの間があって、兄弟三人揃うことが久しぶりであった。弥由は田舎から上京するので気負ったのか、ものの雑誌から切り抜いたような派手な格好をして化粧も厚かった。
背格好は変わらないのに、次由は別人かと目を疑ったほどである。
「そんな格好で家から来たら、警察に通報されたんじゃないの」
「失礼ね。ちゃんと駅のトイレで着替えたわよ」
「ちゃんとって言うのかね、それ」
胸を張って答える妹を、一由が混ぜっ返した。兄の住む辺りは、どちらかというと下町の気風で、地元とはもちろん比べ物にならないけれども、やはり弥由のような格好は辺りの景色から浮いて見えた。
まさに渋谷にふさわしい。折角妹が上京したのと、少しでも目立たないようにとで、三人は上野まで出た。
「弥由が鰻食べたいって言うから、席を予約したのだけれど」
一由が指したのは、鰻料理の老舗であった。次由と二人して食べる時には大抵学食なのに、長兄も妹贔屓なことである。建物からして、和服が似合いそうな趣きがある。
「弥由と雰囲気が合わなそうだね」
「何よお」
兄二人が顔を見合わせて忍び笑いをするので、弥由は膨れた。入ってみれば椅子席もあって、洋装、といってもスーツであるが、和服の客はほとんど見かけなかった。
弥由が客の中ではかなり目立つ部類に入ったのは、予想通りであった。
次由はメニューの値段を見て遠慮して高くない方を選んだのだが、看板に恥じない上品な美味しさで、たれの量も丁度よかった。そのふっくらとした味わいに、もうスーパーの鰻には戻れないのではないかと危惧まで覚えた。




