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利輝と影正  作者: 在江
第二章
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4 伊奈家にて

 花鈴は相変わらず部屋に閉じこもっていた。兄の利輝が家へ来た日、立ち聞きを知らない母の恵梨花が、話し合いの結果を知らせにきた。


 「調子はどう?」


 答えないでいると、母は調子が悪いのだと思ってそのまま立ち去ろうとしたので、花鈴から切り出した。


 「兄様、もう帰ったのね」


 明らかに恵梨花はほっとした様子を見せ、改めて花鈴の元へ戻った。

 母は利輝の来訪を花鈴に直接伝えていなかったが、両親の気配で察したものと考えたのであろう。その顔から不審な表情は読み取れなかった。


 「そうよ。花鈴が許してくれるまで、この家には戻ってこないって約束したの。近いうちに東京へ帰るんですって。だから、花鈴はもう心配しなくていいのよ」


 嘘とまでは言えないが、大分趣きを変えている。花鈴はここで当主の問題に母の注意を喚起すべきかどうか、迷った。守護人の存在の大きさを考えると、計画を練り直さねばならない。


 下手に母を追いつめると、自分の命取りになる気がした。同時に、母がその件をどのように話して聞かせるのか、好奇心が湧いた。


 「花鈴、お爺ちゃんのところへ遊びにいこうか。暫く顔を見せないから、お婆ちゃんも寂しがっていると思うよ。向こうには、美味しいものもたくさんあるし」


 迷ううちに、恵梨花が話題を変えた。お爺ちゃんは、母方の父を指す。父方の祖父は夭折(ようせつ)していて、花鈴はおろか、当の父でさえも顔を知らない。


 小学生の頃と比べると、母の実家を訪れる機会は格段に減っていた。


 家事が忙しいことはもちろん、第一の理由は姑に遠慮しているためだ、と花鈴は思う。

 母の提案は、花鈴のためを思っての事ではあるが、母自身の欲するところでもあると察した。


 花鈴としても、父の猜疑(さいぎ)の目から逃れられるという利点がある。いつまでも家に閉じこもっていたところで、利輝が当主禅譲を拒否した以上、事態は進展しない。


 「そうね。折角の夏休みだし、お祖父様たちに会ったら楽しいかも」

 「きっと、楽しいわよ」

 案の定、浮き浮きした調子で恵梨花が言った。



 花鈴の顔を見て、伊奈家の祖父母はいつもの事ながら、大層喜んだ。


 「花鈴、よく来たなあ。しばらく見ないうちに、また背が伸びたんじゃないか」

 「久しぶりだねえ、花鈴ちゃん。お婆ちゃんが、花鈴ちゃんの好きな物をいっぱい作ったからね、たくさん食べるんだよ」


 祖母の手作り料理がテーブル一杯に並び、食卓は賑わった。母の恵梨花などは、懐かしさのあまり涙ぐみそうになるほど喜んだ。


 祖父母が話しかけるのに花鈴も快く応じ、努めて明るく振る舞った。家にいる間は傷ついた少女を演じていたので、花鈴にとってそのような態度をとることは、無理をした結果ではなく、自然な心持ちからであった。


 観察する限り、母は利輝との間にあった事を祖父母に話していないようである。花鈴としても、少なくとも今は話して欲しくなかった。花鈴はしばらくぶりに、のびやかな気分を味わった。


 寝室には、母が嫁入り前に使っていた部屋を供された。家財道具は既に処分されて片付けられていたものの、藤野の古めかしい日本家屋と違って建物は現代的で、壁紙や照明などそこかしこに、若い娘の部屋らしい華やぎが残っていた。

 母と布団を並べて眠るのは、花鈴には幼児の頃以来と思われた。


 「花鈴、このままお母さんとお爺ちゃんお婆ちゃんの四人で暮らしてもいいんだよ」


 並んで横になっていた母が、ぽつりと言った。花鈴は驚いて目を見開いた。灯りを消した暗さに紛れて、母は笑みを浮かべて見せることもせず、濃い影で覆われた顔が一層悲しげであった。


 騙された、とまず思った。

 母は離婚しようとして、花鈴を連れ出したのか。確かに藤野家の当主を譲るよう(そそのか)したのは花鈴であるが、それが容れられなかったからとていきなり離婚するとは、予想外のことであった。


 憎い犯人であっても、利輝もまた母の実の子なのである。そう簡単に思い切れる筈がない。父とて離婚など考えた事もないだろう。


 花鈴は考えを巡らせた。もし、母が本気で離婚するつもりがないのならば、こうした強硬手段を取るのは今後の展開に有利かもしれない。


 母が藤野家の実権を握れるのであれば、名目上の当主が誰であろうと、花鈴の思い通りに家を動かすことができる。まして当主は留守なのである。


 「それ、どういう意味」

 「今度、花鈴が高校へ進んだら、ここから通った方が近くて便利でしょう。それに、花鈴と一緒に住むことになれば、お爺ちゃんもお婆ちゃんも喜ぶだろうなあって思ったの」


 おやすみ、と言って母は寝返りを打った。明らかに、問題の核心を誤摩化そうとしていた。それは却って、母が本気で離婚を考えていることを示していた。通学の便を考えるだけなら、母まで引っ越す必要はない。


 藤野家を出たいのは、母自身である。花鈴の眠気はすっかり吹き飛ばされた。母が旧家の因習に虐げられているのを目の当りにしていたつもりでも、それほどまでに抑圧を感じていたとは考えもしなかった。


 父は真面目な人間である。仕事柄飲む機会は多くても、酔って醜態を晒すこともなく、賭け事もせず浮いた噂一つ聞かない。家の中で暴力を振るうなどということもない。あの時、兄の利輝を殴ったのは、よほどの衝撃だったのだ。自分で仕掛けておきながら、花鈴はそんな風に回想する。

 ともかくも、娘の花鈴に遠慮して耳に入れないことがあるとしても、些細な事でも噂の飛び交う田舎では、稀な存在だった。


 よって、父として不満はあっても、母が離婚を考えるほどひどい夫であったとは、花鈴には想像もつかなかった。

 父でなければ、祖母がひどかったのであろうか。祖母は確かに気が強い。しかし、特に母に意地悪をするようには、花鈴には思われなかった。


 いくら花鈴が父や祖母を免罪しても、母に届かなければ意味がない。花鈴の知らないところで、母は藤野家に対する恨みを少しずつ積み上げてきたのであった。それが、今回の花鈴の件で一気に噴き出した。


 母が一人ではなく、自分を連れて家を出たことに、花鈴は束の間喜びを覚えた。

 離婚後の生活に想像が及ぶ。すぐに喜びは萎んだ。


 父がいかに養育費を捻り出すつもりでも、家を二軒持つ具合になるのだから、藤野家にいた時と同じような生活ができるとはとても思えない。


 伊奈の祖父母は優しいけれども、一緒に住めば、やはり気を遣わずにはいられない。きっと生活の習慣も違うだろう。

 それに、母に引き取られるということは、伊奈花鈴になるということである。

 伊奈家のことはよく知らない。少なくともこの土地では、両隣やお向かいと同じような普通の家である。因習に囚われた家、つまり普通でない家を(いと)うてきた筈なのに、普通の家に移るという考えは花鈴に違和感を与えた。


 たとえ御当代様でなくとも、藤野家にいる限り、花鈴は藤野のお嬢様である。近在の主だった住人は、藤野家の由緒あることを知っている。

 普通の家の子どもとは、ただその家の子どもである。しかも、父のいない子どもとなる。誰も花鈴のことなど知らない。


 名の有無や生死の別にかかわらず、父が不在の子はことごとに区別されるのを花鈴は知っている。詰まるところ、母に選ばれても、父に捨てられるのでは花鈴は満足できなかった。


 しかし、母が胸に覚悟をしているからには、ただ花鈴が家に戻ろうと持ちかけても容易に動くまい。

 下手をすれば花鈴が一人で戻ることになる。怪しまれることを抜きにしても、母なしで家に戻るのは嫌だった。父が欠けても母が欠けても同じ事である。


 理屈を考える必要があった。祖母の和江を引き合いに出すことはできない。伊奈の祖父母まで敵に回すことになる。

 同様に、父を引き合いに出すこともできない。不在の兄は論外である。

 全く、花鈴の計画は予想外の成り行きになってしまった。ともすると脱線しがちな思考を(なだ)め、花鈴は考えをまとめようと努力した。


 考えるうちに寝入ってしまったらしい。花鈴が目を覚ますと朝だった。

 背中に違和感を覚えて見れば、下着が汚れていた。慌てて布団をめくる。そこにも染みがついていた。暫くの間、花鈴は事態が理解できなかった。


 生憎祖父母の家で、密かに洗濯することができない。呆然と布団の染みを眺めていると、母が目を覚ました。すぐに娘の体に起きた異変を察して、抱き締めた。


 「よかったのよ。あなたは、これでもう元の体に戻ったのよ」


 押し殺した声が嗚咽でかき消されそうになるのを堪えるように、母の腕に力がこめられた。


 花鈴も漸く理解した。


 生理が来た、つまり妊娠しなかったのだ。妊娠すれば次の手が打てたかもしれないのに、と今更ながらに思いつき、不意に激しい感情の高ぶりを覚えた。


 悔しさとも怒りともつかない熱いものが、体の奥からこみ上げてきた。母の嘘を非難するつもりはなかった。元の体に戻ることは、決してない。だが、まだ中学生の身で、しかも実の兄の子など産めたものではない。

 母が安堵するのは、当然であった。


 花鈴は母の腕の中で、祖父母に聞き咎められないよう、声を殺して泣いた。本当は大声を上げて泣き叫びたかった。


 母もまた、心のうちはわからぬながら、花鈴の背で忍び泣いていた。理由は違うのに、同じく涙を流すという一点だけで、花鈴は母との一体感を味わっていた。

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