夜の秘め事
佐藤さんの尾行を始めて一週間。ここを訪れるのも三度目か、なんて感慨深い気持ちで見上げたのは一軒のラブホテル。
「……で、今夜も付き合ってくれるつもりなの?」
振り仰いだ先にいたのはこれまた三度目の遭遇者。最寄り駅で待ち伏せていたらしい柳村さんは「うん」と答えて、缶コーヒーを投げ寄越してくる。
「ありがと。……じゃなくて!どんだけ暇人なのよ。時間はもっと有意義に使ったら?」
「それ、あんたが言う?」
「ぐぬぅ……」
柳村さんときたら今日もきょうとてマイペース。唸る私をほったらかして、「あぁそうだ、」と自分の持ってきた鞄を漁る。
「はい、これ」
差し出されたのは一冊の本。それは二回目に会った時、私が彼に貸した詩集だった。
「あら、もう読み終わったの?」
「まあね、暇人ですから」
「で?退屈しのぎにはなったかしら?」
「それなりには。内容はよくわかんなかったけど」
「そんなに難しいこと、書いてあった?」
「……恋愛の詩が多かったから」
だからよくわからなかったのだ、と彼は言う。
その横を通り過ぎていく幾つもの声、声、声。笑う人波、楽しげな群衆。彼らは『悩みなんてない』って顔で、それ故に──だろうか。目の前の人が少しだけ寂しそうに見えた。
そして私は。接ぎ穂を失った私は、貰ったばかりの缶コーヒーを手の中で転がした。それはまだ温もりを失っていないのに──いいや、だからこそ切ないような、やるせないような、そんな気持ちに陥った。
この人が理解していないのは『恋』だけじゃないわ。直感的にそう思った。恋愛感情の欠落、それだけではない──瞳に巣食う虚ろ。
『死ぬために生きている』と言った心の真実は、きっと『死ぬ理由がないから生きているだけ』なのだろう。彼の眼差しからは破滅と退廃の気配がした。
「……あぁでも、詩自体は優れたものだってオレにもわかったよ。リズム感があって読みやすいっていうか……」
私の戸惑いが伝わってしまったのだろう。執り成すように続けた彼に、私は──ホッとしてしまった。……そんな自分が、いやになる。
かといって踏み込むこととできず、私はただ、笑うばかり。笑って、冷めていく缶コーヒーを口にして、なんでもないって顔をして、
「よくわかってるじゃない。重要なのはそこよ、口ずさみやすいフレーズかっていうのが大切だと思うのよ。どう?あなたの中にも何かひとつくらい残ったんじゃない?」
「それは……そうだな、『冬は終わりになりました』とか、」
「『光はのどかいっぱいに、明るい天地にみなぎって、どんなにさびしい心でも、空気いっぱいに散らばったこのよろこびには負かされる』ね。うんうん、私も好きよ。いいわよね、この頃の詩は穏やかで、あったかくて」
「……うん、それは伝わってきた」
慎ましく、密やかに。形作られた笑みを、私は安堵と共に見守る。
これはきっと、嘘じゃない。破滅と退廃が芯に根差しているのだとしても、それでもこの『やさしい歌』に心動かされたのだって真実だ。
硬質だと思っていた目が、微かに綻ぶ。
「……『本当を言えば僕は怖ろしいくらいです』」
「『すぎた夏、僕の心をとりこにした』……ね。ふふっ、あなたがこんな明け透けな歌を口ずさむなんて、なんだか似合わないわ」
「そうだね。……けどこれは、あんたになら」
視線が交わる。明滅するネオンが唇を踊る。ちかちか、ちかちか。瞬いて、そして。
「……あんたなら、似合うんだろうな」
そして、弾けて消えた。
「えっと、」
夜の街、かしましいほどの雑踏が、うんと遠い。ここだけ、私の知覚する世界だけが夜の闇。足元さえ覚束ない世界で、瞳の反射する星々が私の目を捉えて離さない。
かるい、失墜感。
「……なんて、冗談だよ」
「は、」
「口説かれるとでも思った?……アホ面」
「は、はぁぁあああ?」
片方の口角だけ持ち上げられた笑み。からかいを多分に含んだそれに、私はようやく状況を理解する。
「そんなこと思ってませんけど!?自惚れないでよね!!」
だいたい、私には彼氏がいるし!
「ホントに?」
「ホントよ!ほらっ、証拠!」
突きつけたのは携帯の画面。表示されているのはいつぞや撮った恭介くんとのツーショット写真。撮ったというか、半ば無理やり撮らせてもらったものなので、写真の中の彼はちょっと照れくさそうにしている。
私にとってはどこに出しても恥ずかしくない珠玉の一品。対して、彼はといえば。
「……うわぁ」
「何よなんなのよ、その反応はおかしくない?」
「いやだって、そんなの恥ずかしげもなく待ち受けにしてるなんてちょっと……。かわいそうだよね、彼氏が」
「んなっ。そんな、そんなこと……」
手で口を被って、挙げ句『ドン引きだ』という顔をされ。……でも確かに、確かに彼の言うことも一理あるなって。そう思ったら反論はできなかった。
そりゃ私は恥ずかしくないし、むしろ嬉しくて、でも浮かれてるせいで正常な判断ができていない可能性はなきにしもあらずなわけで。私と恭介くんは別の人間なのだから、彼の気持ちを想像で否定するのもどうなんだろうと思い始めれば思考は堂々巡り。
「え、こういうのって普通じゃないの?やめた方がいい?恭介くんが知ったら嫌がるかしら?」
「いや、オレに聞かれても……」
「だってあなた、私より歳上じゃない。人生の先輩なんだからそこのところも、ほら……、詳しいでしょ?」
「知らないよ。言ったでしょ、恋愛のことなんてわからないって」
「そうだけど、一般常識として」
「……まぁ、オレの周りにはいなかったかな」
「そっ、そうなんだ……」
じゃあやっぱり替えておいた方がいいかしら。何かの拍子に恭介くんに見られて、嫌な思いをさせちゃうのは避けたいし。でもだからといって他に待受にしたい写真もないしなぁ……。
ちなみに以前の私は風景写真のふりをした幼馴染みの盗撮写真をトップに置いていたので、それだけは却下だ。絶対ありえない。ていうかもう削除しちゃったしね。
「……そんなに好きなんだ」
「ん?うん、まあね」
携帯片手に頭を悩ませていると、ぽつり。呟く声は、独り言に似た響き。
……これはノロケてもいいってことかしら?
「『沈みがちな気持ちの僕の前に、にこやかな彼女の姿が現れた』……まさしくこの詩の通り、私は恋に落ちたの。ふふん、素敵でしょ」
「……ノロケていいとは言ってないけど」
「あら、そうだったの」
なあんだ、がっかり。
「だったらなおさら、こんなことやめた方がいいよ。こんなこと……こんなとこにいるくらいなら、彼氏と仲良くやってた方がずっといい。心配、かけたくないでしょ?」
「そりゃあまぁ、そうね」
この一週間はテスト週間ということもあり、色々と誤魔化しもきいたが、部活動が再開されればそうもいかなくなる。先輩は便宜を計ってくれるだろうけど、私にそこまで時間をかける理由はない。
だから彼の言う通りここらが潮時、なのだろう。
「でも報告しづらいわ。……『毎晩違う男性とホテルに入ってました』なんて」
憂鬱だ。完全に純愛もの路線は絶たれてしまった。これならまだ『チャラ男に調教されてしまいました』ルートの方がずっとマシだった。まさかハルウリゲーだったとは。
肩を落とすと、「ここだとそう珍しいことでもないよ」と慰められ(?)た。
……嘘でしょ、どこの世紀末よ。一応同じ市内の話よね?ここだけアリ●ソフトの世界なの?
あ、でも『魔●の贖罪』は乙女的にもオッケーです。影の薄い婚約者くんと一途眼鏡男子のイベントを強化してくれればもっと乙女萌えできたのになぁと今でも思います。
……っと、脇道に逸れてしまった。
「けど、あなたともこれでお別れなんて、……なんだか寂しいわね」
「……そうだね。でも、」
──もう二度と、こんなところには来ちゃだめだよ。
そう言った彼の目はどこか遠くに馳せられていて──結局私は何も言えなかった。せっかくだし、アドレスでも交換しようかと思ったのに。残念。




