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06:自己嫌悪で忙しい夜

 レースに負けた。

 それも、よりによって乗り始めて二ヶ月も経っていない新人のニカに負けた。

 医務室のベッドで眠る彼を眺めながら、こいつの赤毛頭に鉛弾を撃ち込んでやったら少しは気分が晴れるかもしれないと真剣に考えた。

 ニカという人間が憎い。裕福な家、本物の父親、みんなを味方に付ける抜群の演技力と笑顔を持ち、何不自由なくこの町で暮らし始めたニカ。俺が欲しいものをみんな持っているくせに、あいつは俺の唯一の誇りを掠め取っていったんだ。

 押さえ込んだ感情の嵐が頭の中をぐちゃぐちゃに荒らして去ったあと、それでも頭に残ったスキッパーとしての意地が、目覚めたニカと勝負の誓いを交わさせた。


 もう二度と負けてなんかやるものか。


 俺は医務室を後にして、校長から受け取った準優勝のメダルを校舎裏の焼却炉に投げ入れて、ULEA駐機場で待っていたユイと共にみつば3000に乗って逃げるように学校を出た。


「まだ晩飯までだいぶ時間あるけど、この後どうする。ハウスに帰るか?」

 ユイはしょげ切った俺の代わりに操縦席に座り、モニターを見つめてAIに指示を飛ばしていた。

「今は帰りたくない」

 じゃあいつもの鉱山跡に寄るってことで、とユイは自ら操縦桿を握って機体を急加速させた。機体はあっという間に廃墟街へ辿り着き、そこの古い核発電機でレース中に消耗した電気を補充して、山積みされたがらくたのそばへ静かに着地する。


「今日は寒いな、コートでも着てくるんだった」

 ユイはぶるりと体を震わせて操縦席から立ち上がる。スキップから飛び降りた俺たちは、ガラクタの山の奥に見捨てられた、鉱山管理棟の一室に潜り込んだ。

「ちょっと待ってろ。床が冷たいからこの前クッションを持ってきてたんだ」

 ユイは寒い、寒いと言いながら、部屋の隅のロッカーから派手な色のクッションをふたつ取り出して、コンクリートの床に放り投げた。どこかで見たことのあるそれは、たぶんハウスの談話室から盗ってきたものだ。魔女(ハウス長)に言うなよ、とユイは舌を出した。

 俺は部屋の真ん中の骨董品じみた石油ストーブをつけてクッションに腰を下ろすと、体が勝手に大きなため息をついた。

「お前、昼飯あんまり食べてなかっただろ。ほらこれ」

 ユイは床に置いた迷彩柄の大きな道具かばんの中をごそごそと漁って、蓋のついたバスケットを取り出すと俺に手渡した。

「ありがとう」

 中身はちょっとひしゃげたタマゴのサンドイッチ、俺の大好物だ。

 たまらずかぶりつくと、ふわふわのタマゴとトマトの酸味が絶妙に美味しい。

「ユイは昼ごはん食べたの?」

「あたしのことは気にすんな。早く食え」

 ユイはふふっと笑うと、カバンから魔法瓶を取り出して温かいハーブティを注いでくれた。腹が減っていたからサンドイッチがなくなるのはあっという間で、俺はぺろりと完食してしまった。


「よしよしぜんぶ食べ切ったな、じゃあ本題に入るか」

 ユイはさっきまでの笑みを消して俺の顔をじっと見据えた。

「お前、今日の決勝レースでちょっと手を抜いただろ」

 不良っぽい外見に不釣り合いな理知的で冷たいまなざしを向けられて、俺は緊張しだした。こういう時のユイはかなり怒っている。

「……そんなことない」

「じゃあなんで素人の転校生に追いつかれるようなはめになったんだ?」

 俺は返す言葉を探そうと壁に視線を彷徨わせた。

「手を抜いてなんかない!攻めるところはしっかり攻めてただろ?」

 ユイはそんな抗弁には眉毛ひとつ動かさない。彼女はツナギの胸ポケットから携帯端末(セル)を取り出して部屋の中にホログラムを映し出した。レース中の参加者の位置関係、飛行状況、気象といった情報が残酷に目の前に現れる。

「峡谷エリアに入って他を抜かしていったあとだったな。ほらこれ、お前の機動がいつもより鈍い」

 ユイはかなり細かく俺の飛び方に駄目出しを始めた。声に緊張感はないけれどユイの黒い目は笑っていない。レースに関しては昔から厳しいのだ。


「お前は最初から油断してたんだ。ここのところ勝ち続けていたし、コースもみつばに有利だった。相手のひとりはあの転校生だしな」

 ユイは淡々と続ける。

「確かにレース後半はみつばの小回りの良さを上手く生かしていたけど、前半は手を抜いてたようにしか見えない。そんなことしなければ負けることはなかっただろ?」

 正論だ。俺だって本当は少しそう思っていた。けれどそれを認めたくなくて最後のあがきを試みる。

「最後の飛び方はかなり無茶してたんだよ。ACAS(危険操縦回復システム)に操縦を奪われるぎりぎりの機動だったんだ。あれ以上やっていたら身体にも相当負荷がかかるし下手すれば失格になっていたかもしれない。あれを最初からやれって言うの?」

「そうだよ、やれば良かったんだ。お前は甘いんだよ」

ユイは俺をばっさりと切り捨てた。

「リル、お前もぶっ倒れた転校生を見ただろ? あいつはお前に追いつこうと必死に食らいついてたんだ。腕も風の捌き方もなっちゃいないくせにな。まあ素人なんだから当たり前だ」

 けどな、とユイは腕を組んだ。

「あいつは失神するくらいの集中力を保ってブレーキなんか踏まずに岩壁をかわし続けてた。たぶんあれはあいつの才能なんだろう。危なっかしくて見てられなかったけど、確かにあいつはリスクを取ってたよ」

 新人スキッパーに気合で負けてどうする、とユイは静かな口調でそう結んだ。

 そんなこと、自分がいちばんわかってるんだよ。

 レースが終わってからずっと我慢していた涙がこぼれた。唇を噛んでも大粒の涙が次々と頰を伝って流れていく。

 これは悔し涙だ。ニカに負けた悔しさだ。あんないけ好かない奴に自分の居場所を奪われるみたいで許せなかった。

 でもいちばん許せないのは自分自身。今回の敗北は仕込みでも偶然でもなんでもなく、気持ちで負けてしまった。


「さあ帰ろうか。もう日が暮れそうだし」

 ユイはからっと笑って立ち上がると、俺の方に手を伸ばした。



 ハウスに帰るころには辺りは真っ暗になっていた。この白い監獄みたいな建物は昔から大嫌いだったけれど、今はこの太陽系でいちばん近付きたくない場所になっていた。

「いつもみたいに堂々としてればいいんだよ」

「わかってるってば」

 ハウスの入り口でユイが俺の背中を軽く叩いた。経費削減にうるさい魔女のせいで灯が落とされた薄暗い玄関ホールを抜けて石の廊下を進んでいくと食堂の扉の前につく。

「あたし今日は配膳当番だから先に食堂に行ってくる。あとでな」

 ひびって隙を見せるな、やられたらやり返せ。ユイは最後にそう言って別れた。

 この言葉は耳にタコができるくらいユイから聞かされてきた教えだった。ここは学校なんかよりもよっぽど理不尽で冷たく、強者の論理が押し通る場所。それゆえ自分を守るためには、自分もそういうふうでなければいけない。


 廊下を歩いて女子寮に向かっていると前から三人組の男子がやってきた。

「よお、リル」

三人の中でいちばん背が高いいじめっ子、ショーンが嬉しそうに話しかけてきた。後の二人は子分だろう。

「今日のレースで負けたんだってな」

「余裕ぶってたくせに素人にやられたらしいぜ」

「うっわだせー」

 どうしてこいつらは学校にも行ってないくせにこんなに情報が早いのか。予想通りの連中が予想通りのセリフを喋るので、怒りを通り越してなんだか呆れた。

 俺はショーンの趣味の悪いジャラジャラしたネックレスごと奴の胸ぐらを掴んだ。

「どけよ、害虫」

「おお怖えなあ。俺たちと遊んでこうぜ、リル“ちゃん”」

 子分たちが拳をぱきぱき鳴らして近寄ってきて、俺の腕を掴もうとしたところで、ショーンをそのひとりに向かって思いっきり投げ飛ばした。ぶつけられた子分のひとりが悲鳴をあげて廊下に倒れる。

「てめえ、昔みたいに半殺しにしてやろうか」

 顔を歪めて起き上がったショーンの拳が飛んでくるのをさっと躱す。これくらいを避けられないようではスキッパーは務まらない。何度か避けたあと隙を見てショーンの顎に下から拳を打ち込んで、ノックアウト。

 その瞬間、腰に激痛が走って前のめりに転んだ。俺を後ろから蹴り飛ばしてきた奴が、倒れた俺の上に覆い被さってパーカーをひっ掴んできた。


「俺に触るな!」


 フードを脱がそうとしてきたそいつの無防備な股間を下から思いっきり蹴り上げる。そいつは声も出せずに廊下に倒れた。もうひとりの子分がそいつのところに駆け寄ったのを見て俺はその場をさっと離れる。

「ふん、ざまあみろ」

 いじめっ子たちにやり返すのは気分が良かったけど、同時にサイテーな気分にもさせられる。あんな連中といつまで同じ施設で生活しなければならないのか。


 俺は小さいころからずっと痛めつけられてきた。

 五歳の時に両親を宇宙船事故で亡くし、引き取り手のいなかった俺はこの町の国営孤児院、“ハウス”に入れられた。新入りが気に食わなかったのか、俺はこの狭いコミュニティから排除され、徹底的にいじめられた。

 特に女子たちから嫌われた。

 前歯を折られたこともあるし、血尿が出るほど腹を蹴られたこともある。

「あんたの顔が大っ嫌い。その目を潰してやりたい、その長い髪を一本残らず引っこ抜いてやりたい」

 俺はこの頃から自分と同じ女子に怯えるようになった。

 男子もボスのショーンを筆頭にしたグループが一切手加減なく俺をやっつけることに熱中していた。そんな中、ただひとり俺を庇ってくれたのは、みんなから尊敬されていた伝説の天才スキッパー、ユイ。彼女なしに俺はこの歳まで生きられなかった。


 それからはユイを追いかけるということが俺を生き続けさせる支えになっていた。

 このモンテルタウンにおいてレースで活躍するスキッパーたちは尊敬の対象となり、一目を置かれる。俺はユイを師と仰ぎ、小学三年生の時にスキップを支給されてから、ずっとレースで勝つことだけを考えて生きてきた。相変わらず嫌われていたけれど、実績を残し始めた俺への手酷いいじめは無くなっていった。


 同じころ俺は初めての友達が出来た。たしかハウスの同じ年齢グループに属していた男子だった。もう名前も思い出せないし、思い出したくもない。そいつがいなければたぶん、さっきみたいにショーンたちにまた絡まれるようなことはなかったはずだから。


 そいつは俺と同じように少年レースに出場していた仲間のひとりで、そのときは親友と呼べる間柄だった。なんでも話せる友達という存在が楽しく、嬉しかった。

 そして、あれは忘れもしない四年生の春、俺は高学年の生徒と混ざって初めて小学校の全校レースに参加し、優勝した。そして褒賞として新品のスキップを手に入れた。コッホ社製CR7という未成年向けの高速レースマシンで、みんな羨ましがった。親友は俺の優勝を飛び上がって喜んでくれていて、俺もそんな彼の喜びようがまた嬉しかった。

 けれどレースの後何日かして親友は町から消えた。俺のCR7もハウスの駐機場から無くなっていた。

 様々な状況証拠と目撃情報が彼の窃盗を裏付けており、結局彼は数週間後に州都で逮捕されたが、スキップはすでに他人の手に渡っていた。


 悪いことはそれで終わらなかった。


「ぜんぶあんたのせいよ。あんたがたぶらかしたから、彼おかしくなっちゃったのよ」

 親友のことが好きだったというクラスの女子の嫉妬と恨みを買って、俺は学校でも嫌われるようになった。当然のようにいじめられる惨めさ。

 自分は人に嫌われる定めなのだと悟った。もう誰も信じられなくなった。

 それからは自分の顔を見られたり、女子として扱われることが恐ろしくなった。パーカーのフードで頭を隠し、教室の隅で目立たないように息をひそめた。

 そんな俺に誰が近づきたいと考えるだろう?


 廊下を進んで女子寮に入ると、談話室で喋っていた女子たちがちらっと俺を見てくすくす笑う。後ろから紙くずが飛んでくる。俺のベッドがある四人部屋の扉の上には『死ね、おとこおんな』とかいう垂れ幕が掛かっている。それを丸めてDTS(ゴミ箱)に投げ込んでから部屋の左手の二段ベッドの下段に倒れこむ。

「おかえり、リル」

「ん、ただいま」

 この部屋の住人は他の奴らみたいにガキじゃない。それがこのくそったれのハウスでのささやかな幸せだった。

「ユイは?」

「配膳当番に行ってる」

「あっそ」

 喋っていると急に眠くなってくる。俺は着替えもせずにそのままベッドの上で意識を手放した。


 目が覚めると薄暗い部屋のなか、窓から光が漏れていた。カーテンを開けると朝日が部屋に差し込む。腹の虫が鳴いて、きのう夕食をすっぽかして寝てしまったことを思い出し、ちょっと後悔する。部屋を出てシャワーを浴びに行き、さっぱりしてから部屋に戻るとユイが起きていて、俺の夕食のパンと牛乳瓶を持ち帰って冷蔵庫に入れておいたと眠そうに言った。

「起こさなくてごめんな、よく寝てたからさ」

「いいよ、ありがとう」

 俺はパンを齧って牛乳を一気飲みして、いつもみたいにパーカーのフードを深く被る。

「ごめんユイ、朝ごはんのパンも取っておいて」

「はいはい。これからバイト?」

「うん」

 俺はリュックサックを背負うと部屋を出て、他の奴らが起きてくる前にまっすぐ外の駐機場に向かった。誰も見ていないのを確認してからみつば3000を起動させ、ハウスを抜け出す。

 ハウスからだいぶ離れると俺はようやくほっと一息つける。

「バイト先まで飛んで、ちょっと急ぎめで」

「了解しました。目的地を新東京州新東京市12区687の89番に設定、操縦を代わります。本日はお忘れものは——」

「今日はないってば」

 こんな朝からバイトを入れているのは、みつばのバッテリーを出力強化版に買い換える金がいるからだ。 ちょっとばかり機体が重たくなってもいいから、直線飛行時の速度をあげたい。もうレースの終盤で抜かされたくないのだ。そして、こんなにこそこそハウスを抜け出したのはバイトのことを他の奴にばれたくないからだ。ショーンなんかにばれたら大変なことになる。


 州都まではスキップを飛ばせばあっという間につく。

 むかし一度だけ遠足で行った首都のドームよりは小さいけれど、州都も巨大な与圧ドームで覆われていて、そのてっぺんにスキップの駐機場がある。ここでスキップから降り、ガイドAIを携帯端末に移して道案内を続けてもらう。都市ドームの中ではスキップを飛ばせないので、そこからチューブ・エレベーターに乗って12区687に向かい、さらにそこからトラムに乗って89番に辿り着く。

 宇宙港の裏手のちょっと静かな通りを歩いていくと古いビジネスホテルの隣にちんまりとした喫茶店が見つかる。


「シズカさん、起きてますかあ」


 扉を開けて薄暗い店内を見回しても、どういうわけかオーナーがいない。コーヒー豆を挽いた良い香りが漂う店内を歩いてキッチンに入り、電気を付けたとたん、後ろから冷たい手で目隠しされた。

「ひゃっ」

「あはは、だーれだ?」

 耳元で甘い声をかけられて、首筋がぞわっとする。

「おはようございます。毎回それやるのやめてください、シズカさん」

「おはよう。だって可愛いんだもん、私の“リリィ”ちゃん」

「リリィじゃなくてリルです」

 シズカさんはぱっと手を離すと俺の正面に回ってきて、少し屈んでにっこり笑った。長い黒髪が白いシャツの上をさらさら流れる。こんな風に迫られたら女の自分でもなんだかどきどきしてしまう。大抵の男ならイチコロだろう。

 けれど旦那はいない。彼氏もたぶん、いない。

「“わたし”、着替えてきます」

 キッチンの裏手に階段があって二階にはシズカさんが住んでいる。その途中の踊り場には扉があって、小さな部屋に続いている。シズカさんがバイトのために用意してくれた部屋で、今は俺だけが着替える時に使っている。

 ここで働き初めてちょうど二年が経つ。

 小学校6年生の冬、俺は自分のスキップを壊してしまった。

 スキップには強い権限を持つACAS(危険操縦回復システム)が搭載されていて、たとえ自分で墜とそうとしても墜ちない、ほとんど絶対的と言って良い安全性が備わっている。けれど俺は機載コンピュータをいじってACASを無力化していた。これが無い方が自由に飛べる、と調子に乗っていたのだ。

 もちろん違法である。墜落が発覚すればたぶん免許を剥奪されていただろう。

 幸運にも俺が事故を起こしたのは二人の人間にしかばれなかった。 

 ひとりはユイ、病院に運ばれた俺を見てかんかんに怒っていた。

「お前、次やったら殺すからな」

 しばらく口をきいて貰えなくなったけど、そのあと今の相棒、みつば3000型を買ってくれた。


 そしてもうひとりが、シズカさんだった。

 俺のスキップは州都からモンテルタウンに帰る途中でコントロールを失い、州都の与圧ドーム壁に小さな穴を開けて、この喫茶店の裏庭に不時着・大破した。

 その時は夜も遅く、事故を起こしたのもハウスの門限に間に合うように焦って無理な機動を取ったせいだった。シズカさんは店を閉めようとしていたとき、突然の轟音にびっくりして駆けつけたらしい。左腕と足首を骨折して動けない俺を担ぎ上げ、車を飛ばして颯爽と病院へ運んでくれた。

 ひと気のない地区とはいえ、事故が発覚しなかったのは奇跡としか言いようがない。俺の怪我は階段から落ちたということにされ、ドーム壁の損害はシズカさん曰く隕石落下として処理されたらしい。


「あなた、私のところで働く気はない?」


 退院してからシズカさんのところへ裏庭をだめにしたお詫びと、助けてくれたお礼を言いに行ったとき、シズカさんは、そんなことはいいから、とにこにこしてこう言った。

「ここは一応喫茶店なの。お客さんはあんまり来ないけど」

 だから看板娘が必要なのよ、と言ってシズカさんは俺のパーカーのフードを脱がせた。

「ああもったいない。もっと可愛い格好をすればいいのに、リリィ」

「リルです」

「あらごめんなさい、リル」

 シズカさんは俺の顔を除き込んでちょっと真面目な顔をしてみせた。

「働くといってもそんなに難しいことをしてもらうわけじゃないから、それは心配しなくてもいいのよ。もちろんちゃんとしたお給金を渡します」

 シズカさんは俺がハウスで暮らしていること、スキップレースに参加していることもユイから聞かされていて、スキップの改造や部品代に金銭的な負担がかかっていることを承知していた。だからバイトをすることは俺にとっては願ってもない話だったけれど、さすがに小学生がバイトしていいのか躊躇した。

「でも、学校でまだバイトしちゃだめだって言われてるんです」

 するとシズカさんは、少し考え込んだ。

「じゃあこうしましょう。これはアルバイトじゃなくてお手伝い。知り合いの可愛い女の子に店の手伝いをしてもらっているってことにしましょう。それで私がお小遣いをあげるの」

 シズカさんはいたずらっぽく笑った。

「そうします。俺、やりたいです」

「良かった。これであなたも喫茶店『氷砂糖』の一員よ」

「一員て、他にもひとがいるんですか?」

 びっくりしないで欲しいんだど、と断ってシズカさんはポケットから鍵を取り出してキッチンの隣の戸棚を開けた。

 そこにはぴかぴかに磨かれたライフルが並んでいた。ショットガンや対人レーザー銃もあった。喫茶店どころか武器店のようで俺はあっけに取られてしまった。シズカさんはそれを一丁ずつ愛おしそうに撫でると、この子たちも私の家族なのと言って、戸棚を閉めてしっかり鍵を掛けた。

「ほんとは見えるように飾っておきたいんだけど、そうすると所持免許を取られちゃうから」

 シズカさんが言うにはこの銃たちのおかげで今の自分があるという。

「でも、どうして俺なんですか?」

 こんな女の子らしくない、そのうえ迷惑まで掛けたガキをどうして雇おうとするのか分からなかった。

「あなたを気に入ったからよ」

 シズカさんは息が苦しくなるくらい俺をぎゅっと抱きしめた。俺のバイト生活はこんな感じで始まっていった。


 シズカさんが仕立ててくれた丈の長い黒のワンピースと白のエプロンを身につけて、俺は鏡の前に立つ。どこからどう見ても小さなメイドさん、といった感じ。

 にこっと笑顔を作ってみるけれど、相変わらずなんだかぎこちない。青い眼の奥で瞳が不安そうに揺れている。一階まで降りてくると、キッチンでトマト・カレーの味見をしているシズカさんと目が合った。

「ちょっと背が伸びたかしら。今は何年生だったっけ?」

「中等部の二年生です」

「成長期なのね。その格好もだいぶ様になって来たんじゃない?」

 この先の成長が楽しみだわ、とシズカさんは微笑む。

「お店を今日もよろしくね。看板娘ちゃん」

「……はい」

「もっと自信を持ちなさい。いつも言ってるけど、あなたはここの招き猫なんだから」

 リリィちゃんが来てからお客さんが結構増えたのよ、シズカさんは少し笑いながら付け加えた。

「ありがとう、今日もがんばります」

 それから俺は濡れた布巾を絞ってテーブル拭きに取り掛かり、ひとつひとつ丁寧に磨いた。床も隅々までモップを掛けてチリひとつ見逃さなかった。清掃ロボットに頼らずこうやって手作業で掃除をするのも、『氷砂糖』のこだわりなのだ。


 掃除が終わり手を洗って店に戻ってきたころ、壁の鳩時計が午前10火星時を知らせてシズカさんが店を開けた。しばらくすると常連のお爺さんがやって来てのんびり遅い朝食をとり始める。それからぽつぽつお客さんが入ってきて、忙しいような忙しくないようないつものペースで午前中が過ぎていく。


 お昼前になってお爺さんが帰ると入れ替わりに若い女の人がやって来て、ちょっと早めのランチを頼んだ。

「今日のランチはトマト・カレーですよ」

 窓のそばの席に座ったお姉さんは近くの宇宙港で働いているらしく、いつもパリっとしたスーツ姿がカッコいい。彼女は、今日はついてるわね、とにっこりした。

 シズカさんのトマト・カレーはこの店の不定期人気メニューだ。柔らかい大きな冬トマトがまるごとひとつ入っていて、ほんのり甘くそれでいて水っぽくない、絶品。

 熱々のカレーをお姉さんのテーブルに運んでキッチンに戻って来ると、お姉さんが美味しそうに食べ始めるのが見えた。まばらなお客さんと、のんびりした店内、サンドイッチのパンをざくざく切り分けるシズカさん。俺はこの平和な空間が好きだった。

 まるでハウスとは真逆の場所。舐められないようにフードで顔を隠す必要もないし、終わりのない敵意に晒されることもない。けれど顔を晒すことはいまだに慣れず、弱かった幼い頃の苦しい記憶がときどき俺の心臓を鷲掴みにしてくる。それでもこの二年間でだいぶ傷が癒された。女の子らしい格好をすることにも少し慣れてきたとおもう。


「あっそうだリリィ。これあなたにあげる」

 お姉さんは店を出るとき、思い出したようにカバンの中から二枚のチケットを取り出した。

「会社のくじで当たったんだけど、忙しくて行けないから。好きに使って」

 手に握らされたそれは、新東京州でいちばん大きなテーマパーク、「メアリーズ・ポート」の入場券だった。チケットを眺めているといきなりホログラムが目の前に投影されて、『太陽系最高のテーマパークはここ!』とか『地底コースターが新登場!』とかマスコットのキャラクターが騒ぎ始めた。

「わっ何これ?」

「あはは、それ持ちながら『黙って』って言えば黙るよ」

「だ、黙って。黙れ!」

 ようやく猫みたいな喧しいマスコットが静かになって俺はため息をついた。だって遊園地のチケットなんて生まれて初めて見たんだから。

「ありがとう。でもこれ、貰っていいんですか。買ったら結構高いんじゃ……」

 いいのよあたしが行ったってしょうがないから、とお姉さんは手をひらひら振って、にやりと笑う。

「あなただってこういうの好きでしょ?彼氏でも連れて行ったら」

「か、彼氏なんていませんよ」

「えー本当に?」

 いるわけないじゃないか、という言葉は飲み込んだ。いつも男の子みたいに強がって暮らしていて、彼氏どころか人が寄ってこないのに。でも、このお姉さんに言っても仕方がない。

 お姉さんは楽しそうに俺をひとしきりいじってから、

「じゃあね、ご馳走さまでした。マスター、またカレー作ってね」

 そう言って仕事場に戻っていった。


 この日のバイトは2時でおしまいで、そのあと店の二階で昼ごはんを食べてから帰る予定だった。

 喫茶店『氷砂糖』には常連のお姉さんのような宙港関係者がお昼休みに食べに来て、ちょっと忙しくなる。でもお昼休みの時間帯が過ぎてしまうと、また暇になる。

 シズカさんがさっきコーヒー豆を挽いたから、店の中はとてもいい香りでいっぱい。

 もうそろそろ上がりの時間だなと、壁の鳩時計をちらっと見たときだった。


「いらっしゃいませ」


 店に入ってきたのは、身なりのいい中年の男の人と、その息子らしき赤毛の少年。俺は男の子の顔を見たとたん固まった。

 見間違いなんかじゃない。

 どういうわけだか分からないけど、その男の子はニカだった。


「良かったなニカ、ここならゆっくりできそうだ。やっぱり港は人が多過ぎていかん」

「お父さん、お仕事お疲れさま」

「ああ、ありがとうニカ。昼飯遅くなって悪かったな。好きなの頼んでいいぞ」

 二人を席に案内して注文を聞いている時も俺は気が気じゃなかった。

 ニカにばれたらクラスの連中に告げ口されるかもしれない。そうすればハウスの奴らも知ることになってしまう。何より、ニカに見られると思うと頰が熱くなった。自分が女の子らしい格好をしているところを、あのいけ好かない奴に知られたくはなかったのに。


 ニカは食事中も俺の方をずっと見ていた。出来るだけ目が合わないようにしても、向こうから合わせてくる。さすがに俺のことに気が付いたかもしれない。

「お前が頼んだカレーうまそうだな。ちょっと父さんも食べていいか?」

「え、ああ。別にいいよ」

「どうした?今日はあんまり食べないな、ニカ」

「いや……。今はそれどころじゃないんだ」


 それから何十分かニカと不本意な睨めっこをしていると、ニカは父親と席を立った。彼の父親がカウンターにいるシズカさんのところへ会計をしに行ったのを見て、さり気無く離れようと思って俺はテーブルの皿を下げに行く。


「あの、ちょっと良いですか」


 ニカが後ろから声をかけて来た。もう誤魔化しようがないと、俺は覚悟を決めて振り返った。

「なんですか」

「ぼく、ニカといいます。あの、あなたの名前が知りたいんです」

 それを聞いて俺は少しほっとした。どうやらまだばれてはいないらしい。でもどうして名前なんか聞くのだろう?

「わたしは、リ……リリィです。どうして名前を聞くんですか?」

「突然ごめんなさい。あの、ぼく」

 ニカは顔を赤らめ、俺の手を握った。


「リリィさん、あなたに一目惚れしました。ぼくと付き合ってください」




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